2017年1月1日、A年イエス命名の日、東京聖テモテ教会

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカによる福音書2章15〜21節)
2017年1月1日、A年イエス命名の日、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 教会の暦はまだクリスマスの祝いの中になる。今日の福音の主人公はマリアだ。羊飼いたちの訪問に驚いたマリアは、「すべてを心に納めて、思い巡らしていた」とルカは伝えている。「思い巡らす」とは、はっきりとした価値判断をせず、すぐに評価をしないことだ。すぐには答えが出せないからといって考え続けることを諦めるわけでもない。「思い巡らす」とは誠実さと忍耐力を必要とする態度だと思う。

 

 マリア自身、自分が体験していることの意味をまだ理解してはいない。しかし自分が理解できないからといって、これは無意味だとか、よくないことだなどと決め付けることで大切な何かを見失うことがあってはならない。ルカの物語では年若いマリアがそのことを十分に承知している様子がうかがえる。

 

 「思い巡らす」と訳されたsymballōは、一人で思案にくれるというだけではなく誰かと相談するという意味もある。複数のものを投げ入れる、幾つかの可能性、選択肢について検討する、協議するという意味の言葉らしい。辞書を引けば、衝突する、ぶつかり合うという訳も出てくる。「思い巡らす」という日本語には結論のないままあれこれ考えているというニュアンスがあるが、symballōはもっとしっかりとした態度のことだ。これはむしろ「じっと考える」(塚本虎二)、「熟慮する」(佐藤研)、「(繰り返し思い出しては)考え続けていた」(山浦)の諸訳のように解釈した方がいいだろう。

 

 あれこれ考えるとか思い巡らすとか、脳内対話のような映画もある。頭の中の天使と悪魔の会話という設定でもいい。マリアはすぐに一つの結論を出そうとはせず、体験したこと、見聞きしたことを忘れないようにとしっかり心に刻み付けて(心に納め)思いめぐらしていた。これは過去のことを忘れずにいようという気持ちではなく、これから起こる出来事にしっかりと向き合えるように自分自身の体験をきちんと整理しておきたいということではないかと思う。

 

 マリアは喜びや驚きよりむしろ不安の方が大きかったに違いない。羊飼いや東方の学者たちの訪問はもちろん悪い出来事ではなかっただろうが、これから一体どうなるのかという不安は大きかっただろう。聖書の読者はこれから起こる出来事については繰り返し読んでいるしよく知っている。しかし今日の福音がわれわれに語りかけているのは、新しい一年の始まりに当たっての心構えではないかと思う。

 

 良いニュースも悪いニュースもある。冷静に考えれば不安な材料が多いのかもしれない。その中でわれわれはどこに立とうとしているのか、何を目指して歩もうとしているのかを再確認する必要がある。それはクリスマスの物語の中心テーマであり、羊飼いたちが天使から聞いたメッセージ、マリアとヨセフが告げられたメッセージだ。救い主が生まれた。希望はこの先にある。神はわれわれを見捨ててはいない。人間の善意は決してむなしいものではない。われわれが聞いた福音は、地上に平和が訪れるという希望の知らせだ。人間はまだまだ捨てたものではないという確信だ。

 

 目の前の幼子はまだ誰かを助ける能力など持ち合わせていない。誰かに守ってもらわなければ一瞬たりとも生き延びることができない幼子でしかない。それでもその幼子の中に希望を見出すのがクリスマスのテーマであり、われわれに与えられた大切なメッセージだ。イエスとは天使が告げた名前であり、イエスの生涯は神的な力の中でスタートした。父親による名付けという家父長的伝統、常識やしきたりなど一切の人間的支配を克服した人間としての人生がここから始まった。

 

 


2016年12月25日、A年降誕日、東京聖テモテ教会

2016年12月25日、A年降誕日、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 聖公会はクリスマスの物語を多様な角度から描き出している。全体を知るためには降臨節第四主日からすべての礼拝に出る必要があるが、降誕日当日のこの礼拝、10時半の聖餐式の日課、ヨハネによる福音書1章には天使も羊飼いも登場しないし夜空も星も出てこない。抽象的な言葉が続く今日の日課にがっかりする人もいることだろう。多くの人がイメージするクリスマスの物語はルカとマタイが伝えるあの物語だ。マリアのもとに天使が現れて受胎を告げる、ヨセフのもとにも天使が現れてマリアと幼子を守るように告げる、そして羊飼いと東方の学者たちには御子の誕生が予言され、ついに彼らは幼子と出会うという美しい物語だ。

 

 羊飼いたちは、天使が告げたとおり飼い葉桶に寝かされた幼子を見る。この幼子が、先祖たちが待ち望んだ救い主だということを彼らは知らされている。ついにこの地上に平和が到来する、ローマ帝国の圧政に苦しむ人々であればこそ、その感激は大きかっただろう。彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰っていった」とある。羊飼いたちは感激し涙ながらに神に感謝したことだろう。けれども彼らは再び羊たちとともに暮らす日常へと戻ったということだ。

 

 東方の学者たちも同じだ。星の導きで探し当てた家の中にはマリアとヨセフ、幼子イエスがいる。自分たちの長年の研究が報われたという充実感もあるだろうし、まだ幼いとは言え預言者たちが語り伝えた救い主についに出会ったという感激はどれほどのものだっただろうか。彼らはヘロデ王に対して事の次第を報告しなければならなかったが、天使の導きによってそれをせずに故郷へと帰っていった。「別の道を通って」と書いてあるからヘロデの追手を逃れるためだったのだろう。あるいは、これまでとは違う生き方へと導かれたことが象徴的に表現されているのかもしれない。学者たちはとてつもない事件に遭遇したが、結局は自分たちの国、自分たちの日常へと帰っていった。

 

 クリスマスの祝いは教会の中でも格別だし、日頃教会と全く縁のない人々も含め、街全体がクリスマスムードに包まれるというのはとても素敵なことだ。この礼拝が終わる頃はクリスマスムードもすっかり冷め正月の準備に切り替わっているに違いない。教会の暦ではクリスマスシーズンはまだまだ続く。そんなんことも知らないでと冷ややかな目を向ける必要はない。熱しやすく冷めやすいと悪口を言う必要はない。聖書に出てくる羊飼いや学者たちもおそらくそうだったに違いない。救世主の誕生を目撃した彼らであっても、その後は再び日常に戻り、自分たちに託された仕事にいそしんでいる。マリアとヨセフはもちろんそうだ。不思議な出来事を心に収めたマリアであっても、この先の日々を祈りと黙想のうちに過ごすことなどできるわけはない。身近に手伝ってくれる人もいたことだろうが、生まれたての赤ちゃんを育てる親の日常は誰もが知る通りだ。ヨセフもそうだ。マリアやイエスを気遣いながら必死で働いて生活費を稼ぐ。天使のお告げ、不思議な人々の来訪はとっくに昔のことのように思えただろう。

 

 日常に忙殺される。これがわれわれの現実であり、聖書に出てくる人々もおそらく同じように日々の暮らしに押しつぶされながら生きていたのだろうと思う。ただ、羊飼いも学者たちも、もちろんマリアもヨセフも、あの夜の出来事を忘れることはできなかったはずだ。しっかりと目に焼き付いたあの光景が、日々の暮らしの中で浮かぶこともあっただろう。あの夜、幼子イエスに出会った彼らはもはやそれまでの彼らではない。複雑な人生の中で真実とは何かを目の当たりにした。神はわれわれを見捨てはしなかったという確信を得た。たとえ彼らの日常が特別なものに変わることは無かったとしても、彼らの心の中に宿った確信は日々の暮らしのいたるところに影響を及ぼしたに違いない。彼らにとって、天使の語りかけは夢物語ではなくなったし、預言者の言葉が真実であること、星の動きにしるしが現れることも確かな知識となった。こうして羊飼いと学者たち、ヨセフとマリアの日常は「神がともにある」という確かなものに支えられる日々へと変わったはずだ。

 

 イエス自身に招かれてわれわれはこの食卓に集っている。クリスマスだから教会に行ってみようとか、平日だと仕事があって行けないが今年は日曜日と重なったのでちょうどいいとか、教会から案内が届いたからとか、我が家は毎年そうしているからとか、クリスチャンとしては当然だとか、われわれにとって今ここにいる理由はそれぞれだ。もちろん一人ひとりがはっきりとした意思を持って、あるいは万難を排してここに集ったのは事実だろう。けれども、イエス自身の招きがなければわれわれはこの食卓に集うことはできなかったはずだ。羊飼いたちや東方の学者たちが星や天使に導かれたように、われわれも実は星や天使によって、あるいは何かもっと違う呼びかけに導かれてここに集められている。

 

 洗礼を受けた者であれば、あるいは大人になって堅信を受けた者であれば、イエスに招かれたあの瞬間の出来事を記憶しているだろう。あるいは聖書に触れたとき、礼拝に出たときの感動があるはずだ。心優しい人々とのふれあいとか、だれかの祈りや言葉に感動したこともあっただろう。素晴らしい文学や映画、音楽に感動して教会と出会った人々もいるだろう。もちろんその感動や感激は一瞬のものであり、それに続く日常の複雑さの中でいつの間にか忘れ去られてしまったのかもしれないし、いつもそれを思い起こしては心を新たにしてなどいないだろうが、立ち返るべき原点があるということがわれわれにとって何ものにも代えがたい特別な何か、恵みそのものであるに違いない。「インマヌエル、神がともにいる」とはそういうことではないかと思う。

 

 


2016年12月24日、A年降誕日第一聖餐式、東京聖テモテ教会

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(マタイによる福音書1章18〜25節)
2016年12月24日、A年降誕日第一聖餐式、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 「イエス・キリストの誕生の次第」。これはイエス・キリストのゲネシス(ἡ γένεσις)についてという意味だ。ゲネシスとは旧約聖書では創世記のこと、神によってこの世界が作られた次第についてのあの物語だ。つまりこれは天地の創造ならぬイエス創造の物語ということになる。もちろん神がこれを造ったと聖書は語る。

 

 創世記で神は「光あれ」と言った。天地の創造は神の言葉によって行われた。そして今日の福音書、イエスの創造には「天使」と「聖霊」が関与する。天使も聖霊もわれわれの目には見えないが、きっとそのような力が存在してわれわれの人生において何かの役割を果たしているに違いない、という漠然とした想いはあるだろう。そうあってほしいという願望とか期待を持つ人も多いし、それにとどまらず天使や聖霊の関与を確信している人々もいる。クリスチャンのことだ。

 

 宇宙創造の次第について、科学者の見解と創世記の記述とでは大いに違う。わたし個人の考えを述べれば、ビックバーン仮説とか超ひも理論などが理解できるわけではないにせよ、きっとそういうことに違いないとは思っている。たしかに聖書は天地の始まりの次第について述べてはいるが科学の教科書を読むように聖書を読む必要はないだろう、とわたし個人は考えている。同じように、「イエス・キリストの誕生の次第」についてもマタイが語ったことがその全てだと考える必要はない。そもそもここにはマリアもエリサベトも登場しない。この説明で全てが解き明かされていると考える必要はない。

 

 しかし重要なテーマがある。それはイエスの誕生、イエスという一人の人物というよりも、神が人類に希望を託し確かな希望を約束したということだ。そしてこの驚くべき出来事を考えるうえでどうしても理解しておきたいことは、そこには天使と聖霊の関与があるということだ。まるでおとぎ話のようで気に入らないという方々には、目には見えない何らかの力の関与があると説明しておきたい。それはロマンチックだが非科学的で迷信的だとおっしゃるなら、われわれの現実は今われわれ自身が目に見ていること、理性で捉えていることが全てではないという説明ではどうだろう。

 

 この考えは確かに非科学的ではあるし合理的でないが、こんな古代人的な物言いにも確かな利点がある。それは、天使と聖霊の介入を計算に入れている限り、われわれは決して絶望することはないし八方塞がりにもならないということだ。「わたしは失敗しない」と豪語する医者のドラマが人気を博しているが、その番組にこの前「神様のプレゼント」などという非科学的なセリフが登場した。やはり神様は必要だなどと言うつもりはない。患者を前に「わたしは失敗しない」と豪語する架空の外科医をわたしは尊敬する。尊大だといえば尊大だが、とてもわたしの手には終えませんと謙遜ぶって尻込みする外科医に執刀してほしい患者はいないだろう。やるからには失敗しないと断言すべきだ。尊大だからではない、神を信じないからではない。使命感と責任感があり、日々の努力を怠らず、目の前の現実に誠実に向き合っているならば、自分は必ず成功する、決して失敗しないと断言していいのだと思う。

 

 もちろん人間は失敗をする。能力には限界がある。だから先回りして失敗するかもしれませんと言っておいた方が気が楽かもしれないとは思う。しかし信じる者の生き方はそうではないと思う。「人事を尽くして天命を待つ」、これが信じて生きるということだ。人間の手を超えた世界を大前提として受け入れる。そうだからこそわれわれは人間の能力を最大限に発揮することができる、最善をつくすことができるということではないだろうか。クリスマスの情景に当てはめるなら、ヨセフは自分なりの「正しさ」に従った。もちろん彼は一人の人間として苦しみ、嘆き、あるいは憤ったに違いない。事態を「表ざたにする」選択肢もあったにもかかわらず彼はそうはしなかった。彼は必死に悩み、考え、正しく生きようと苦闘したあげく一つの結論に到達した。それにもかかわらず、自分が導き出した正しい答えを全否定する天使の声を、ヨセフは受け入れた。現実にはありえないにも関わらず、あれは聖霊の働きであると認めることができた。おそらくマリアもそうだった。必死になり、苦闘した末の結論には聖霊の導きがあるはずだ。それを神からのプレゼントと言ったとしても決して人間の敗北とは思わない。

 

 


2016年12月24日、A年降誕日前夕「夕の礼拝」、東京聖テモテ教会

2016年12月24日、A年降誕日前夕「夕の礼拝」、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 この季節、今年一年間を振り返るようなテレビ番組や新聞雑誌の特集が登場する。オリンピックなど楽しいイヴェントもあったが悲しい事件、悲惨な出来事も多くあった。トルコやヨーロッパにシリアからの難民が押し寄せ大問題となったが、おそらくこれは今後も大きな問題であり続けることだろう。ある保育園で、日本には難民の人たちは来ないのと質問された。今すぐ多くの難民が日本に押し寄せてこないのは遠く離れているからだろう。しかし日本は基本的に難民を受け入れない。もし助けを求める人々が来たとしても受け入れてもらえないということを覚えておきたい。

 

 イギリスの聖公会が難民問題と取り組んでいることは以前紹介したが、ヨーロッパ各地で教会が難民受け入れに積極的に取り組んでいることはキリスト者として誇らしいことだ。場所を提供することだけではない。言葉や文化の違う人が地域社会に馴染むようにしなければならないし、仕事や安定した暮らし、あるいは子どもたちの教育など日常的な課題がいくらでもある。受け入れるとひとことで言ってもこれは並大抵のことではない。日本では原発事故で汚染された地域から避難してきた人々に対するいじめや差別が報道されている。こんな排他的な社会が海外からの難民など受け入れることはできないだろう。日本が誇る「おもてなし」の心は、お財布をもった観光客のような自分たちに都合のいいゲスト向けのものであって、助けを必要としている人々には向けられないのがこの社会の現実だ。

 

 今から半世紀以上前、労働力を補うためにスイスがトルコ人労働者を迎え入れた。トルコはイスラム教国でもあるし文化的なギャップも大きい。そのときフリッシュという作家が「スイスは労働者を受け入れたつもりだったが、来たのは人間だった」という言葉を残した。今、ヨーロッパではこの作家の文章が再び脚光を浴びているそうだ。「われわれは難民を受け入れたはずだったが、来たのは人間だった」。

 

 困っている人を助けよう、マイノリティの人権とか被差別者と連帯するなどと言う。もちろんこれらは重要なことであり、日本でも教会は人権擁護のために活躍し一定の存在感を示している。しかし、そこにいるのはマイノリティとか被差別者という特別の存在ではなく当たり前の人間だ。大切なことは、人間を大切にする、人間と関わるということであり、だから当然そこには相手への敬意、理解しようとする気持ち、そしてお互いに忍耐が必要となる。もちろんそこには新たな友人を得ることの喜びがあるだろうし、何かの折には互いに助け合うことが大前提とされているはずだ。

 

 ヨーロッパに流入したのは難民ではなく人間だ。食べ物も住まいも仕事も必要であり、多くの人は家族でやって来た。人間である以上、自分の好きな食べ物があるし慣れ親しんだ文化がある。おそらく多くの人は今までと同じように祈りたい、自分たちのやり方で神を讃えたいだろう。子どもたちは学校に行きたいだろうし、働けばいつかは出世もしたいだろう。人間である以上友達も欲しいし恋もする。当たり前に暮らしていた当たり前の人間が、戦争によって慣れ親しんだ家を失って命からがら逃げてきたということだ。その中には親切な人も意地悪な人もいる。おとなしい人も乱暴な人もいる。もちろん、どんな街にもそういう人はいる。善人だから助けてあげよう、おとなしい人だから助けよう。郷に入れば郷に従えだと言って彼らに厳しく接する人は、「人間とは何か」という根本的な問題をふたたび考える必要があるはずだ。自分たちに都合がいいから、自分たちに理解できるからではなく、命ある存在だから大切なのであり仲間なのだ。

 

 ルカ福音書が伝えるクリスマス物語は、マリアとヨセフが旅をしてベツレヘムにたどり着いたという物語でもある。彼らにとってここは外国ではなかったが見知らぬ土地であることは間違いない。ナザレから歩けば四日はかかるだろう。マリアが身重であればもっと時間がかかるかもしれない。「聖家族」だと知って親切にしてもらったわけではない。人々のあたりまえの善意が彼らを守っただろうし、ヨセフとマリアは必死になって旅先で泊まる場所を見つけ、食べるものを探したに違いない。そしてついに出産まで経験することになる。キリスト教は二千年にわたって旅先で出産する聖家族を中心にクリスマスを祝ってきた。見知らぬ人々の善意、マリアとヨセフの必死の思いによってこの地上に生を受けた幼子イエスの誕生を祝ってきた。聖家族はこのあとエジプトに向けて文字通りの難民生活を送ることになる。

 

 自分たちに都合がいい人を選別する、という利己的な考えを持つのも人間だ。苦手な人と付き合いたくないと思うこともあるし、妬んだり恨んだりもする。自分の努力が認められないことが悔しくて、つい誰かに八つ当たりをする。これも普通の人間のすることだ。弱さは誰もが持っている。だから誰もが人を傷つけることがあり、苦しめることがある。それと同じように誰もが人を慰めることができるし守ることもできる。相手の痛みがわかるから、助け合って生きていこうと思えるのが人間だ。

 

 聖書さらには、見捨てられた人々の側に光を当て、見捨てられた人々が真実を知っていると語っている。困っている人、助けを必要としている人、見捨てられた人々に手を差し伸べましょうということではなく、難民の只中に救い主がいる、命からがらたどり着き、鉄条網に囲まれたキャンプで震える人々の中に御子がいる。救いはそこから始まるのであって、われわれは手を差し伸べるのではなくその場に馳せ参じて自分たちの宝物をささげようではないか、というメッセージだ。キリスト教が二千年に渡り、旅先で出産する聖家族を中心にクリスマスを祝ってきたのはそういうことだ。見知らぬ人々の善意、マリアとヨセフの必死の思いによってこの地上に生を受けた幼子イエスの誕生を祝ってきた教会は、いまこのとき、同じような思いで必死に生きようとする人々を無視することはできない。

 


降臨節第三主日

 一年前の降臨節第三主日に「ローズサンデー?」という記事を書いた。読者の反響など気にせず書くブログなのに、ちゃんと読んでコメントをくださる方もいる。さて2016年の降臨節第三主日はどうするか。その答えは11月に入るとすぐに出さなければならなかった。当然のことだ。アドベントリースに使うろうそくを買いに行く都合があるからだ。ローズ色が一本入ったセットが売られている。これを買ってくれば従来と同じ「ローズサンデー」を継承することになるが、今年はそれをやめて全色白にした。いつも聖卓脇に置いている燭台のろうそくをそのまま使えばわざわざ買いに行かなくてもいい。合理的だ。

 

 「ローズサンデー」を巡る考えは幾人かの方には伝えてある。予想通りの答えだが、先生のご判断でということになった。とはいえ、なぜ今年は真っ白なのかと気にする人もいるだろうから、降臨節第三主日にはその話をしたほうがいいという助言も受けた。そうすることにしよう。

 

 同じ紫の季節でも降臨節と大斎節とでは趣旨が違うという「証拠」をひとつ見つけた。聖歌54番は「降臨節」に分類されているが、最終節に注記があって「大斎節には5節を省く」とある。5節の歌詞は次の通りだ。

 

 聖なるかな 民すべてよ

 神に感謝をささげよ

 喜ばしき たたえ歌を

 この祝いの よき日に

 

 この歌詞は大斎節には不向きだが降臨節には適している、と「日本聖公会聖歌集」は考えている。見落としでなければ、聖歌集の中でこの注記はここだけだ。日本聖公会にとって大斎節は慎みと克己の季節であり「喜ばしきたたえ歌、祝いのよき日」という言葉はふさわしくない。しかし降臨節であればそれは許容できるということだ。ある時代、どこかの地域では降臨節を慎みと克己の季節として過ごしていた敬虔な人々がいたのだろう。そこには修道者に限らず街で暮らす人々も含まれていたのかもしれない。この伝統は日本のローマ・カトリック教会にどのくらい浸透しているのだろうか。

 

 二主日分も頑張れば一息つきたいほどの厳格さがどのようなものかわからないが、現代の教会の場合、あらゆる機会をとらえて違いを出しておかないと商業主義に飲み込まれてしまうという危機感があるのはよく分かる。街のクリスマスとは違うんだぞという異議申し立て、教会のプライド、「俗世」と一線を画した「真のクリスマス」を示したいという切なるメッセージが柔らかなバラ色に込められている、そう思えばいいのだろう。そんな気持ちを理解しないわけではないが、来年は宗教改革500年だ。「すべての道はローマに通ず」になりがちな聖公会の現状への違和感は無視しないでおきたいと思う。

 

 


趙博さん講演会、無事終了

【関東三教区生野委員会、第52回日韓の歴史を学ぶ会】
「ヘイトスピーチ」って、なんだ?! 〜在日の現住所から問う〜

2016年9月24日(土) 14時半〜
講師 趙博(ちょう・ばく)さん

 

「ヘイトスピーチ」という奇怪な現象だけが問題なのではない。

日常を問い直す大変刺激的、かつ示唆に富む内容でした。最後に二曲も歌っていただき一同感激!

あめの中ご来場くださった皆さま、ありがとうございました。

 

趙博さんの東京公演、ぜひどうぞ!

 

ライヴ&トーク

http://fanto.org/schedule/index.php/view/886

■と き:10月8日(土)18:00 open 19:00 start
■ところ:ライヴバー BUNGA(東京都杉並区天沼3-1-5 / B1F)

 

歌うキネマ『NUTS(ナッツ)』

http://fanto.org/schedule/index.php/view/874

■と き:10月12日(水)開場19:00 開演19:30
■ところ:スターダスト
東京都世田谷区下北沢2-19-10 3階

 


2016年08月28日、C年特定17主日、東京聖テモテ教会

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカによる福音書14章1、7〜14節)
2016年8月28日、C年特定17主日、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 今日の福音はあまり高尚な内容ではなく宗教的な含蓄に富んでいるわけでもない気がする。あいかわらずツッコミどころは満載だ。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」は受けるばかりで何も与えない人のように言われているが、とんでもない。社会的弱者と呼ばれる人々がどれだけこの社会に貢献しているか、知らない人はいないはずだ。もうすぐパラリンピックが開催されようとしているこの時期だと思えばなおさらのことだ。

 

 高慢であってはならない、という教えは日本社会では古くから大切にされてきたように思う。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」ということわざもある。ある人と権威をめぐって議論したことがある。その方は権威や序列は重んじるべきだと考えていて、〜教授、〜博士などの尊称は大切にすべきだと考えていた。その方は、例えば大学において教授なのか准教授なのか、この違いは常に明らかにしておくべきだという。教会であれば司祭なのか執事なのかはまったく違うのだと言っていた。

 

 これは個人の考えの問題であると同時に文化の問題でもあるだろう。日本でも先輩後輩の関係はおろそかにできないし、年長者をたてるのはもちろん社会的地位のある人に対してはとりあえず先生と言わなければならないという感覚がある。儒教文化圏ではこの感覚は共有されているだろう。それが教会のような権威の精度を持つ共同体において、なおさら強調されるのかもしれない。欧米の教会では主教もファーストネームで呼ばれる場面を見て驚くが、アジアではあり得ないことだろう。

 

 権威や序列は重んじられるべきだという考えは権威主義ではなく責任の所在を明らかにするのだという。謙遜は美徳だが責任感の自覚がないことは問題だ。皆さんの意見を聞くといういかにも民主的で平等な考えはいいがリーダーシップの不在は組織を混乱させる。権威や序列が大事だというのは、それに見合った責任の所在を明らかにするべきだという考えだ。そう主張していた方は、たしかに責任感が強く、決断力があり、仕事に関して部下を責めない立派なリーダーだった。

 

 しかしイエスが「高ぶってはならない、へりくだっていなさい」ということはこれとは別の意味があるように思う。シラ書は、高慢さは神から離れた結果であり罪だと厳しく断罪している。もちろん偉そうな人は誰からも好かれないが、偉そうにしてしまうことは誰にでもある。人は誰しも怖がられることで自分を守ろうとするからだ。グループの中で、怖い人、気難しい人と認定されれば誰も議論をふっかけないしあからさまな批判もしない。場合によっては何かにつけご機嫌を取ってもらえるだろう。けれども、こういう立場になってしまった人はじつに孤独であり、哀れだ。

 

 たとえば厳しくすることで相手を育てるとか、良い方向に向かわせるとか、学校の先生や指導者のように愛情としての厳しさをうまく使いこなさなければならない場合もある。けれども教師や指導者は、相手を恐れさせ、萎縮させて自分の支配下に置こうとする誘惑にさらされている。恐れられ尊敬されている間はいいが一度馬脚があらわになれば一気に尊敬は失われ、嘲笑と哀れみの対象となってしまうだろう。これも孤独で哀れな有様となる。聖書に登場するファリサイ派は当時の社会の中でこのように恐れられ、敬遠され、嘲笑されていたのではないかと想像する。

 

 イエスはどうだったのだろう。聖書に記された彼の言葉を読めば厳しく怖い先生の表情が浮かんでこないだろうか。イエスが困るだろうからとうるさい子供たちを黙らせれば、このような子たちこそ神の国にふさわしいなどと叱責される。浮気はけしからんと責めれば、心の中でそう思っただけで浮気をしたのだと反論される。これでは立つ瀬がない。イエスの前で何か言えばすぐにすべてをひっくり返されてしまいそうだ。

 

 今日もイエスは、せっかく自分を招待してくれた人に対し、見返りを求めて社交的な付き合いをするようなことではダメだ、食事は信仰の実践なのだから愛の分かち合いとして見返りを求めずに行いなさいと直言する。当時、ラビのような宗教指導者はこうして招かれた席で何かを語って人々を導いたのだろうし、招待する側もこうしたお説教を期待しているのだろうが、イエスのやり方ではまさに面目丸つぶれということにならないのだろうか。イエスの態度はいつも礼儀を失している。彼はいつも場の空気を読まない。

 

 おそらくそれはイエスが世間一般の秩序、長幼の序のようなものを重んじていないからだろう。招待者の立場、世間では重んじられている人々の面目、自分が置かれた立場のようなものには気をとめず、つまりその場の空気を読むのではなく、人間にとって何が正しいか、本当に必要なことは何かを優先するのがイエスのスタイルだった。それは彼が配慮に欠けた怒りっぽい先生だったからではなく、世間一般の秩序によって苦しめられている人々のことがいつも念頭にあったからだろう。それは彼の社会批評でもあっただろう。そしてイエスが、自分にはもう時間がないと感じていたからだろう。だから彼はどこでも、誰に対しても遠慮などしなかった。

 

 そんなイエスの生き方に魅力を感じた人々、真実を見出した人々の群れが教会となった。高ぶらずに生きていこう、虚勢をはるのはやめよう、自分の欠点を受け入れる勇気を持とう、自分の間違いを正してくれる相手に感謝をしよう、失敗した仲間を責めるのはよそう、自分も失敗を大目に見られて今があるのだから。そんな考えでまとめられたのが今日の使徒書に違いない。高ぶらずへりくだった人生とはつまりこういうことなのだろう。

 

兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」(ヘブライ人への手紙13章1〜6節)

 

最後の言葉は詩篇118篇6節の引用だ。118篇1節から9節を読んでみたい。

 

恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
イスラエルは言え。 慈しみはとこしえに。
アロンの家は言え。 慈しみはとこしえに。
主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。
苦難のはざまから主を呼び求めると 主は答えてわたしを解き放たれた。
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。 人間がわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、助けとなって わたしを憎む者らを支配させてくださる。
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
君侯(支配者)に頼らず、主を避けどころとしよう。

 

 神の慈しみを受け入れた安心感がわれわれを謙遜にし、へりくだらせる。不安はわれわれを高慢にし、不安な人は虚勢をはる。これは宗教に帰依することを意味していない。人間に依存しない生き方、眼に見えるものに依存しない生き方のことだろう。

 

 


初めて知られる安炳茂(アン・ビョンム)の生涯

 評伝 ー城門の外でイエスを語るー (安炳茂著作選集 別巻)、かんよう出版

 

 

「かんよう出版」の安炳茂著作選集の刊行が始まりました。第一巻は彼の代表作である『民衆神学を語る』ですが、同時に別巻として『評伝、城門の外でイエスを語る』(原著2007年)が刊行されました。

 

 今まで安炳茂には二つの評伝があり、先に出版されたのは新約聖書学者で安炳茂の弟子でもある金明洙(キム・ミョンス)氏による作品『安炳茂、時代と民衆の証言者』(2006年)です。単純に生涯を綴った伝記とはことなり、安炳茂が生きた時代背景や彼の思想がどのように形成されたのか、その生き方の背後にあるものは何か、その仕事が社会に与えた影響が何でありわれわれに何を語りかけているかなど、幅広い情報と洞察が必要とされます。金明洙先生の作品は学者らしい客観的で冷静な筆致によるものであり、身近にいた弟子ならではのエピソードや時代の雰囲気を伝える内容が魅力的です。実は、安炳茂の神学思想を日本でも広く理解してもらえるようにと金明洙版の評伝を私訳したのですが、昨今の出版事情から原稿はいまだにわたしの手元にあります。もちろん金南一(キム・ナミル)版も読んではいましたが物語的すぎるかなと思い、わたしは金明洙版を選んだのです。

 

 一読して、金南一版の評伝、『城門の外でイエスを語る』は、読み物であることを意識した作品だなと感じたのはたしかです。著者金南一さんは文学的想像力も交えて安炳茂と周囲の人々の感情にしっかりと寄り添う作品、読者に訴えかける筆致を重視してこの作品を仕上げているように感じられます。けれども今回、仕事としてあらためて全編を読み通してまったく違う側面を感じることになりました。それは金南一さんが描いた情景の一つ一つ、登場人物に語らしめた言葉の一つ一つは単なる創作物ではなく、そのほとんどに具体的な典拠があるという驚きでした。

 

 全271箇所に及ぶ脚註の数から明らかなように、この評伝は膨大な研究の成果であり、その内容は安炳茂神学に限らず、軍事独裁政権下の韓国の政治状況と民主化への道程、ボンヘッファーやタイセン、さらにはポストコロニアリズムなどの現代思想まで多岐に渡ります。金南一さんは文学者ですが、この評伝執筆のために安炳茂の著作はもちろん、安炳茂の神学を論じた論文などもくまなく目を通してあり、神学的論点についての深い読み込みも随所に見られます。そのおかげで、わたしが韓国語で書いた論文も引用していただくことになりました。

 

 訳者、金忠一先生があとがきに書いておられるように、この評伝は実に感動的です。それは作者の文学的力量であり、もちろん安炳茂の魅力でもありますが、何よりも彼が生きた時代(1922-1996)が持つ特別なメッセージでもあるでしょう。安炳茂が生きたのは日本による植民地支配、解放、分断、独裁政権、民主化という激動の時代であり、それは知識人も信仰者も自身の学問や信仰をそれぞれ実存的に問われる状況でもありました。安炳茂は常に民衆の痛みから目をそらせることができない誠実な人間であり、研究者、信仰者でした。この時代が一人の人間に強いた痛みについては他にも多くの文献、作品を通して知ることができますが、『城門の外でイエスを語る』は韓国現代史を知る上で第一級の証言といえるでしょう。

 

 「城門の外」というキーワードは安炳茂の生涯を考える上で重要なものであるだけでなく民衆神学を知る上でのキーワードでもあります。これはイエスの十字架の意味を解き明かす鍵語であるのですから、実はすべての神学を反省する上で最も重要な指標の一つになるはずだとわたしは考えています。この評伝を通して人間安炳茂の魅力に突き動かされながら、一人でも多くの読者が安炳茂の作品を読み進んでいただければと願っています。

 

 

 


いよいよ安炳茂神学の全容を日本語で知ることができる!

  民衆神学を語る (安炳茂著作選集 第一巻) 、かんよう出版、2016/6/24

 韓国の現代神学者安炳茂(アン・ビョンム、1922-1996)の日本語版著作選集の出版がいよいよ始まりました。この大事業に取り組んだ「かんよう出版」は大阪を拠点とする新しい出版社ですが、キリスト教関係、特に韓国や中国に関する良書を次々と出版する大変意欲的な出版社です。定期刊行される「キリスト教と文化」は硬派な神学雑誌として貴重な存在と言えるでしょう。

 

 これまで『民衆神学を語る』(新教出版社)を通して安炳茂の神学思想に触れた方は多いと思います。もちろんこの作品が彼の代表作であることは確かですが、この作品は質問と答えという形式になっていて学術的論文とは言えませんし、「民衆神学」とは何かを解説する目的が根底にあるので、安炳茂自身の神学思想を自由に語りきったものとは言えません。『民衆神学を語る』を通して確かに民衆神学者安炳茂と出会うことはできるのですが、それが彼の全体像かと言えばそうではないと思うのです。

 

 新教出版社版の翻訳は大変優れた翻訳です。ごくわずか、校正上のミスと思われる部分があって一行ほどの内容が欠落しているのですが。今回、金忠一(キム・チュンイル)氏が新たに訳し直した『民衆神学を語る』は原語である韓国語の語感を生かした翻訳といえるでしょう。解釈を加えない、言葉をして語らしめるという基本姿勢は一般的な翻訳理論とは異なる面があるかもしれませんが、新教版と合わせて読んでいただくことで、作品の真価が一層明らかになるのではと思っています。

 

 「著作選集版」の特徴は原語のニュアンスを生かしているという点、そして各巻に専門家による解題が付されている点にあります。これから刊行される全巻にそれぞれもっともふさわしい解題執筆者が割り当てられていますが、『民衆神学を語る』を担当した崔亨黙(チェ・ヒュンムク)氏は、安炳茂の最後の弟子にあたる世代であり、この作品の作成過程(録音を文字化し編集するなどの作業)にも直接関わっているだけでなく、自身が「第三世代」と呼ばれる民衆神学者として活躍中でもありますのでまさに適任といえるでしょう。

 

 この「著作選集」は韓国の「安炳茂記念事業会」が全面的に協力することで実現しました。わたしは日本における著作選集刊行に責任を持つことになりました。崔亨黙さんが韓国側、わたしが日本側の責任者です。翻訳はすべて金忠一先生ですが「用語監修」ということで校正の段階からすべての原稿に触れる機会が与えられています。訳者を疑うわけではありませんが、思わぬ誤訳もあるかもしれないと思い、一行一行、原書と読み比べながら作業を始めました。しかし、三冊目に入ったところで作業の仕方を変えました。今までのところ、誤訳というべきミスは皆無だからです。驚くほど実直な翻訳に心から敬意を表します。

 

 修士論文、博士論文ともに安炳茂の民衆神学を主題にしたわたしとしては、彼の作品の基本的なものはおおよそ目を通したつもりでいたのですが、今回、すぐれた日本語訳を通してあらたに出会い直すことで、安炳茂という神学者のユニークさと魅力に心がふるえています。民衆神学は伝統的なキリスト教神学の枠を超えた奇異な神学、一時的な流行と受け止められている向きもありますが、一人のキリスト者、一人の知識人として誠実かつ熾烈に生き抜いた安炳茂の魅力は、神学的立場を超えて多くの人に大切な何かを訴えていると確信しています。

 

 保守化した韓国の神学界全体から見ればマイナーな作業と言わざるを得ませんが、崔亨黙さん、金鎮虎さんなどを中心に韓国では安炳茂をこの時代に読み直そうとする大変刺激的な努力が続けられています。日本では90年代に脚光を浴びながらもその後これといって注目を浴びずにいる感がありますし、民衆神学を研究テーマとする研究者も驚くほど少ない(ほぼいないといってもいい...)現状はとても残念でなりません。

 

 新約聖書学の作品としては評価できないという批判はあるでしょう。確かに安炳茂は学会で注目を集めるような研究者ではありませんでしたし、彼が言っていることは今世紀においてはもはや常識化し、あるいは時代遅れの解釈に属する部分もあるでしょう。けれども、聖書全体をつかむ神学者としての眼力と同時に、混迷するこの時代(彼にとっては独裁政権下の韓国)に真正面から向き合い、自身を投じ、人々の叫びの中に真実を聞き分けて希望のありかを指し示す預言者的行動力と洞察力、そして意外なほどの(?!)キリスト教への愛情はすべての時代の読者に訴えかける力を持っていると思うのです。

 

 これから「民衆神学以前」の安炳茂の作品を含めて、彼の重要な作品が十冊にまとめられ翻訳出版されます。価格を見れば個人、特に学生の方々には手が出ないと思われるかもしれませんが、この選集を通して安炳茂というユニークな神学者がアジアにいたということが多くの人に知られるようにと願っています。そしてこの著作選集を通して民衆神学への興味が喚起され、研究者が生まれ、いよいよ日本における民衆神学が生み出されるようになればと願っています。

 

 

 

 


2016年度春、アジアのキリスト教1、03

17、民衆神学は伝統的な「教会」と世界との境界線をなくす実践、自分がもし信じるなら「分かち合いの家」の人々が信じる神だという言葉こそ理想的 →ヨーロッパのキリスト教にとって世界はキリスト教であり教会でしたし「異教徒」たちは他者であって救済や改宗の対象でしたが非キリスト教圏においてこの図式は成り立ちません。世界の中で教会を相対化する視点が教会の本質を回復するものだと思います。聖書には「木はその実によって知られる」という言葉がありますが、実践こそが最も説得力のある言葉ということですよね。

 

18、実社会を生きる人々にとって意味のあるものでなければ宗教は無意味となる →宗教詐欺の被害にあったという<18>さんですが、「まとも」と思われているはずの宗教であってもきちんと自己相対化、自己批判ができているのかが常に問われる必要があります。「自分たちが正しいと思うからこそ伝道・布教ができる」という考えは間違いです。教会は自分たちが正しいのではなく正しい教えに従って歩もうとしている集団にすぎません。いかなる宗教も「罪人」つまり弱い人間のあつまりです。集団や組織が持つ健全さの指標は内外からの批判を受け入れる余地があるかどうか、メンバーが最高責任者と議論ができるかではないでしょうか。

 

19、市民の力で独裁者を追放し無血で民主主義を獲得したのは韓国だけだという事実は重要だ →フィリピンの「ピープルパワー革命」も無血革命と呼ばれることもありますが最後は軍隊の反乱によって事態が推移しましたので純粋に市民の力だけでとは言えないでしょう。それだけに韓国の人々にとって民主化は大きな意味があり教会がそのために大きく貢献したことは教会にとっての誇りです。ところが最近独裁時代に逆戻りさせたい人々が社会の実権を持つようになりました。北朝鮮や中国も独裁政権が恒常化していますし日本も経済成長と安全保障ばかりに関心が行きがちで民主主義という言葉の重みが失われている気がします。アジア全域で民主主義の真価が問われています。

 

20、「分かち合いの家」はベンチャービジネス、ソーシャルベンチャーともいえるが基本精神が利益優先ではないのでまさに教会だ、制度と実践に関するバランス感覚がすごいと思う →現場主義ということですよね、目の前の現実に関わるためにそれにふさわしい形や制度を作り出す柔軟さと、イエスの実践に倣って生きる自分たちの働きを教会の働きだと確信するキリスト教に対する信頼感の深さが重要なのだと思います。

 

21、キリスト教の社会的責任といっても具体例が浮かばなかったが「分かち合いの家」を見てなるほどこういうことかと思った →思い込みやとらわれから自由になることで可能性はいくらでも広がります。しかし「分かち合いの家」も韓国における教会の活動の伝統、ヨーロッパのキリスト教の様々な実践、南米の神学などを学んだ結果生まれた姿であり、表面的には新しいように見えても実は教会の伝統に立脚している活動といってもいいのだと思います。

 

22、現場や活動が重要であるように見えても実は最も重要なのは「信仰」だ →彼らの現場における活動の原動力は何かということですよね、それが聖書であり教会であり信仰であることは確かです。この場合の「信仰」が建物や制度に規定されたものや私的な何かではなく人間の顔をした信仰であること、人々の暮らしに根ざした信仰である点が重要なのだと思います。

 

23、今まで繰り返し聞かされてきた「隣人を愛する」ことが具体的にどうすることなのかイメージが浮かばなかった、「愛する」ことを目的にするのではなく自分が共感する人に向き合うことが第一歩だ →同感です。隣人愛というようなお題目、ルールが先行するのではイエスが批判した「律法主義」になってしまいます。具体的な状況を抜きにして抽象的に愛とか正義を語るのはかえってマイナスではないかとさえ思います。この状況で愛とは正義とはと考えそれを実行しながら問い続けていきたいものです。

 

24、小学校から14年間キリスト教を学んできたので新しい知識が増えるという期待はなかったが、視点を変える、観点を変えるということで新しい発見がたくさんあることを学んだ →知識においてもこれからまだまだ学ぶべきことはあるはずですが、問題は知識ではなく解釈でありそれを自分の実体験とどう結びつけるかということですよね。立場を変えればストーリーは変わってくるものです。ザビエルの視点ではなく当時の日本の武士あるいは仏教徒、農民の側からキリスト教はどう見えたのかという視点の転換ができればまだまだ面白いことはたくさん出てくるはずです。聖書だって、読み方によってメッセージは全然違ってきますから。

 

25、信仰は目に見えないものだと思っていたが目に見える信仰というものを知った →「あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」(新約聖書「ヤコブの手紙」2章16〜18節)

 

26、同じ場所で暮らすことで問題の真相が見えてくるというのはコルカタのテレサの例にもあることだ、きれいなチャペルで礼拝しながらみすぼらしい人が来ると奇異な目で見ていた、「わかちあいの家」のような敷居の低い教会に憧れる →「地域に開かれた」とは本来こういうことですよね、韓国とは社会の成り立ちや人々の考え方も違うので同じことができるとは思いませんが地域活動は日本でもありますし教会やクリスチャンが関わることが多い気がします。「どなたでもどうぞ!」という場合、想定する対象者は極めて限定されているのが現実であり、まずは教会の言葉の矛盾に気づくことから始める必要があると思います。

 

27、本当に教会を必要としてる人のために教会はあるべきだ、お高くとまった教会というイメージもあるが「ノートルダムの鐘」のようにジプシーをかくまう教会の姿も知っている、礼拝で心が安らぐとしても一時的なものでしかない、毎回ハッとする授業だった →挑戦の歴史を学びながら教会が民衆と共に歩んできたこと、社会全体に教会の肯定的イメージがあることを学びましたが、日本でもキリスト教は貧しい人を助けるとか人のために何かをするというイメージは定着しているはず、それと現実の教会とのギャップが問題ですよね。

 

28、儀式、形式、学問が宗教の本質ではないはず、宗教を敬遠する人々は本質を見失った宗教を毛嫌いしているのであってイエスの教えを伝えるのではなく愛を実践するようなキリスト教なら敬遠する人はいないはず →同感です。入信を迫る、献金を要求する、プログラムへの参加を強要する、献金が多く参加度が高いこと、「宗教に熱心」であることを信仰に指標とするような団体に入りたいと思う人はいないですよね。

 

29、韓国が好きで行ったこともあるが「教会が多いな」という程度であってキリスト教とのつながりは意識しなかった、次に行った時は授業を思い出して色々な場所を訪ねたい →是非そうしてみてください!

 

30、韓国ドラマを見ていると教会の人が貧しい人に食事を配るようなシーンがある、日本のドラマではありえない光景だ →クリスチャンが20%以上いる社会ですからテレビでも映画でもそういうシーンは出てくるし、登場人物として神父が出てきたり教会が舞台だったりということが起こります。


calendar
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< July 2017 >>
Time is money!
selected entries
categories
archives
recommend
recommend
recommend
recommend
東北アジアにおいて聖公会であること (日韓聖公会神学会論文集 2)
東北アジアにおいて聖公会であること (日韓聖公会神学会論文集 2) (JUGEMレビュー »)

日本と韓国の聖公会神学者の論文集です。執筆、編集、翻訳を担当しました。
recommend
recommend
聖公会神学、アジアからの再検討
聖公会神学、アジアからの再検討 (JUGEMレビュー »)
韓国聖公会の神学者の論文を読むことのできる貴重な一冊。編集と翻訳を担当しました。
recommend
recommend
新・仏教とジェンダー―女性たちの挑戦
新・仏教とジェンダー―女性たちの挑戦 (JUGEMレビュー »)

 仏教から発せられ、仏教に問われた問題は、キリスト教や他の宗教、そしてそれ以外の様々な人間集団の根源的な課題を明らかにしている。
recommend
妻帯仏教の民族誌: ジェンダー宗教学からのアプローチ
妻帯仏教の民族誌: ジェンダー宗教学からのアプローチ (JUGEMレビュー »)
川橋 範子
 第一部の理論編が秀逸。「ジェンダー宗教学」とはこういうことだ。フェミニスト視点、ポストコロニアリズムを学ぶため教科書としても手ごたえ十分。仏教に限らず宗教教団に関係する人々は本書にしっかり向き合った方がいいだろう。
recommend
バリアオーバーコミュニケーション
バリアオーバーコミュニケーション (JUGEMレビュー »)
堀越 喜晴
「ボランタリーアクティビティー」を一緒に行っている堀越先生の新刊書。コミュニケーション論であり現代文化論であり、一話完結のエッセーは読み応え十分!
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM