2017年1月1日、A年イエス命名の日、東京聖テモテ教会

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカによる福音書2章15〜21節)
2017年1月1日、A年イエス命名の日、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 教会の暦はまだクリスマスの祝いの中になる。今日の福音の主人公はマリアだ。羊飼いたちの訪問に驚いたマリアは、「すべてを心に納めて、思い巡らしていた」とルカは伝えている。「思い巡らす」とは、はっきりとした価値判断をせず、すぐに評価をしないことだ。すぐには答えが出せないからといって考え続けることを諦めるわけでもない。「思い巡らす」とは誠実さと忍耐力を必要とする態度だと思う。

 

 マリア自身、自分が体験していることの意味をまだ理解してはいない。しかし自分が理解できないからといって、これは無意味だとか、よくないことだなどと決め付けることで大切な何かを見失うことがあってはならない。ルカの物語では年若いマリアがそのことを十分に承知している様子がうかがえる。

 

 「思い巡らす」と訳されたsymballōは、一人で思案にくれるというだけではなく誰かと相談するという意味もある。複数のものを投げ入れる、幾つかの可能性、選択肢について検討する、協議するという意味の言葉らしい。辞書を引けば、衝突する、ぶつかり合うという訳も出てくる。「思い巡らす」という日本語には結論のないままあれこれ考えているというニュアンスがあるが、symballōはもっとしっかりとした態度のことだ。これはむしろ「じっと考える」(塚本虎二)、「熟慮する」(佐藤研)、「(繰り返し思い出しては)考え続けていた」(山浦)の諸訳のように解釈した方がいいだろう。

 

 あれこれ考えるとか思い巡らすとか、脳内対話のような映画もある。頭の中の天使と悪魔の会話という設定でもいい。マリアはすぐに一つの結論を出そうとはせず、体験したこと、見聞きしたことを忘れないようにとしっかり心に刻み付けて(心に納め)思いめぐらしていた。これは過去のことを忘れずにいようという気持ちではなく、これから起こる出来事にしっかりと向き合えるように自分自身の体験をきちんと整理しておきたいということではないかと思う。

 

 マリアは喜びや驚きよりむしろ不安の方が大きかったに違いない。羊飼いや東方の学者たちの訪問はもちろん悪い出来事ではなかっただろうが、これから一体どうなるのかという不安は大きかっただろう。聖書の読者はこれから起こる出来事については繰り返し読んでいるしよく知っている。しかし今日の福音がわれわれに語りかけているのは、新しい一年の始まりに当たっての心構えではないかと思う。

 

 良いニュースも悪いニュースもある。冷静に考えれば不安な材料が多いのかもしれない。その中でわれわれはどこに立とうとしているのか、何を目指して歩もうとしているのかを再確認する必要がある。それはクリスマスの物語の中心テーマであり、羊飼いたちが天使から聞いたメッセージ、マリアとヨセフが告げられたメッセージだ。救い主が生まれた。希望はこの先にある。神はわれわれを見捨ててはいない。人間の善意は決してむなしいものではない。われわれが聞いた福音は、地上に平和が訪れるという希望の知らせだ。人間はまだまだ捨てたものではないという確信だ。

 

 目の前の幼子はまだ誰かを助ける能力など持ち合わせていない。誰かに守ってもらわなければ一瞬たりとも生き延びることができない幼子でしかない。それでもその幼子の中に希望を見出すのがクリスマスのテーマであり、われわれに与えられた大切なメッセージだ。イエスとは天使が告げた名前であり、イエスの生涯は神的な力の中でスタートした。父親による名付けという家父長的伝統、常識やしきたりなど一切の人間的支配を克服した人間としての人生がここから始まった。

 

 


ミッションステートメントを活かすために7〜10


第七回 「代祷、代理?象徴?」(2016年6月15日号)

 礼拝は信仰者として生きる上で必要な訓練の場であり、日常が本番であれば礼拝はリハーサルだと申し上げました。礼拝が大切だという意味は、本番、つまり日常生活のそれぞれの現場で信徒一人一人がクリスチャンとして魅力的に生きることが大切なのであり、そのためにはしっかりとした準備、リハーサルが必要だからです。

 

 聖公会の礼拝は祈祷書に沿って行われますので、一人一人の心の動きが反映されないという欠点があります。代表して誰かが祈る「代祷」でも、信徒は原稿を読み上げるだけで心からの切実な祈りをささげるわけではありません。司式者がどんなに心を込めて祈ろうとしても、それは台本の朗読になりかねません。そんな聖公会のスタイル、成文祈祷を批判的に見る人がいるのは当然のことです。

一方、初代教会以来のキリスト教の歴史の中で育まれた宝物のような祈りの言葉は、私たち人間の移ろいやすい感情的言葉、利己的になりがちな思いをはるかに超えた素晴らしいものであることも事実です。聖公会の人は自由祈祷ができないという声も聞かれますが、そんな時のために、特祷や祈祷書の諸祈祷の一つを暗唱、あるいは参考になさってはいかがでしょうか。祈祷書の祈りの言葉は、先輩たちの祈りの花束であり、一時的な思いを超えた不思議な力があるもの。祈祷書の素晴らしさも大切にしたいものだと思います。

 

 さて、そんな祈祷書には素晴らしいが故の欠点があると思うのです。クランマー大主教以来、聖公会は英知を集め、心を込め、祈りの中で祈祷書を編纂し改訂を繰り返してきました。私たちの祈祷書は実によくできているし、その中で「聖餐式」は驚くべき完成度を持っています。完成度が高く素晴らしい聖餐式は多くの象徴が溢れているのですが、欠点はまさにここにあると思います。使徒言行録にあるように、アテネの人々は実に信心深く、あらゆる神のために祭壇を作り、「知られざる神のために」という祭壇すら作っていたほどです(17章23節)。同じように聖餐式には「不在者」すら象徴的に臨席し、教会がまだ取り組めていない多くの課題も象徴的に含まれているのです。真の知識とはおのれの無知を知ることだ、とソクラテスが言ったように、私たちの礼拝も、自分たちが不完全で、不在者がいることも分かっている、ある意味それは「ミスのない完璧な答え」なのです。しかし、それによって礼拝出席者は現状に満足してしまうという本末転倒な現象が生じてしまうのではないか。それを私は素晴らしいが故の欠点だと思うのです。

 

 代理には本物の役目は果たせません。象徴も本物を超えることができません。代祷は不在者を覚えることで、不在である現状を認めてそれに慣れてしまうものであってはなりません。「礼拝を大切にする」とは「礼拝だけを」大切にすることではないはずです。

 

 


第八回:祈りと宣教(2016年8月15日号)

 教会で行われる礼拝では必ず「主の祈り」を用いるのですが、その内容は必ずしもわたしたちの心情と一致するものではないかもしれません。それは、祈祷書で「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与ください」、ルカでは「必要な糧を毎日与えてください」、マタイでは「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」となっている部分です。今日一日食べるために必要な食料が与えられるように祈り求めよ、とイエスは命じられました。宇宙的、あるいは世界的なレベルにおいて必要なのは神の御意志が実現することだが、人間一人ひとりのレベルにおいて必要なのは今日一日食べていくこと、生きていくことだという祈りです。たしかにこれは基本的なことではありますがわたしたちの実感としてはどうでしょうか。

 

 ルカ福音書には「主の祈り」に続いてイエスの例話が記されています。ある人が真夜中に友人を訪ね「友よ、パンを三つ貸してください」と頼むというストーリーです。この人には夜になって訪ねてきた友人に出すものがない、というのです(ルカ11:5〜6)。「貸してください」とは返すあてがある言葉ではなく、食べ物をめぐんでもらわなければならない恥ずかしさが表現されているような気がします。お金を貸して欲しいという頼みはもちろん、誰かに食べるものを分けてくれと頼みに行くのは並大抵のことではないはずです。「主の祈り」の背景にはここに描かれているような徹底した貧しさがあるようです。

 

 本当の祈りは自分のためにではなく誰かのためにするものです。これが祈りの本質であり宣教の精神です。例話の主人公は、自分一人であれば空腹をこらえたのかもしれませんが、自分を頼ってきた友人、おそらくは何も食べずに疲れ果ててようやくたどり着いたこの友人のためにならと、迷惑を承知で夜中に人を訪ね、門をたたいてしつように頼み込みました。自分が恥をかくこと、後日、嫌味を言われたりうとまれること、貸したパンを返せと迫られること、これら自分に不利になることを引き受けてでも飢えた友人を助けることが優先される、とこの人は考えている。人間とはそういうものではないか、困った人のためになら必死になるものではないか、とイエスは考えているし、この考えは人々の共感を前提としています。その上でイエスは、神はこのような切なる願いを聞き届けてくださる、願い得ない良いものを与えようとしてくださると教えています。

 

 誰もが「日ごとの糧」を必要としているしそれを受ける権利がある、人間は誰であれ一日一日を生きる権利があるし、そのために支え合い分かち合うのが当たり前ではないかというイエスの教えを常に声をそろえて確かめるのがわたしたちの教会の礼拝であり、いのちの尊厳と分かち合いの大切さを訴え続けるのが教会の使命だと思います。

 

 


第九回:「常に改革される教会」2016年10月15日号)

 

「私たちは礼拝を大切にします。そしてすべての方を招き入れ、共に歩んでいきます」。

 

 これが私たち東京聖テモテ教会が目標とする姿です。この連載では、礼拝という一見静的な姿が宣教という動的活動と表裏一体であることを示してきました。そのためには今まで当たり前だと思ってきたことを見つめ直し、自分の関心だけでなく隣人の姿に目を開いて自分自身を乗り越えていく、という信仰的成長が不可欠です。もちろんそれは自分の力でできることではなく、神の恵みによって初めて可能となるものであることは言うまでもありません。

 

 私たちの教会は「学ぶこと」を大切にする良い伝統を持っています。これは私がテモテの牧師としていつも誇りに感じていることであり、歴代の信徒と教役者が築いてくださった良き伝統をこれからも大切にしていきたいと思います。聖書や教会の伝統を学ぶこと、自分自身の信仰について問い返すことは入信準備に限らず信仰生活の中で常に繰り返されなければなりません。

 

 宗教改革者ジャン・カルヴァンは、改革が必要なのは腐敗したローマ教会だけでなく、すべての教会が常に改革され続けなければならないと考えていました。彼の伝統を継承する教会は「改革派」と呼ばれます。二十世紀を代表する神学者の一人であるカール・バルトは改革派に属していましたが、バルトは宗教改革を正しく継承することはカルヴァン当時の形式を守ることではなくカルヴァンのように教会を改革し続けることだと考え、「常に改革される教会」(Ecclesia Semper Reformanda.)を提唱しました。

 

 聖公会は宗教改革後の諸教派の中でも伝統を重んじる教会と考えられています。けれども伝統とは古い形式を保持することではなく、昔からある大切な精神を継承すること意味しているはずです。聖書解釈、教理、礼拝の形式など教会にとって大切なものが時代とともに変化します。「司祭は男性に限る」とか「陪餐は堅信後に限る」という長年保持し続けられた考えも変わりました。これは、伝統をないがしろにすることではなくむしろ教会らしくあり続けようとした結果であり、聖公会が今でも聖公会であり続けている喜ばしい証拠です。聖公会の伝統は変わることにあるからです。

 

 もちろんこれはキリスト教の伝統であり本質です。変わることをやめた時、「キリストのからだ」であるはずの教会は単なる宗教組織になってしまいます。変わらぬ本質に生かされている教会は絶えず変化を遂げてきました。教会を変化させ続ける原動力、神の霊、聖霊の働きは常に私たちを新しい姿へと招き続けているはずです。私たちはその招きに不安を感じ、時には不満を漏らすことさえあるのですが、聖霊の促しに喜びと感謝をもって応じる教会であり続けたいと思います。

 

 


第十回:「最終回、私たちが教会です」(2016年12月15日号)

 ミッションステートメントの主語は「私たち」です。もちろんこれは東京聖テモテ教会のことですが、「私たち」とは教会全体のことであり、教会委員とかいつも目に見える奉仕の役割を担っている人々だけを意味しているわけではありません。教籍があろうがなかろうがテモテファミリーに属する全員がミッションステートメントの主語である「私たち」だと考えたいものです。

 

 中学の時、「日本の主権者は誰ですか」という問いに対して「私」と答えなさいと教えてくれた教師がいました。「国民」などと抽象的なことを言ってはいけない、自分自身が責任ある存在だと今から自覚して勉強しなさいというのです。このことを思い出しながら、ミッションステートメントを力あるものとするために、「私が教会だ」と言ってみてはどうか、私が礼拝を大切にする、私がすべての方を招き入れる、私がすべての方と共に歩むと宣言してはどうだろう、と考えてみたのですがうまくいきませんでした。

 

 信徒一人ひとりが意識を高めることは重要です。けれどもミッションステートメントの主語として「私」はふさわしくありません。教会の働きは一人の人間によって担えるものではありません。それは組織や制度が担っているものでもありません。「教会問答」の冒頭にあるように、「教会とは人間の集まり」であり、それは人と人との出会いの中に臨在するイエス・キリストを実感することであって、私がどう生きるかということにはとどまらないのです。つまり教会とは、人と人との間にあるものと言い換えてもいいでしょう。

 

 聖歌442番をご存じでしょう。「共に集まり語り合う、祈り合う、そこにキリストは共にいる」。シンプルな曲調と共にとても印象深く素敵な聖歌です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ 18章20節)と約束された方は、一人の信仰者の心の中にとどめておくことができない方であり、私たちが隣人と出会い、語り合い、祈り合い、仕え合う時、自分自身と隣人との間にイエス・キリストが現臨しておられるのだと思うのです。

 

 私たち、東京聖テモテ教会がイエス・キリストを表すものであるために、礼拝を大切にし、隣人を大切にすることがどうしても必要なのだと思います。

 

 

 


ミッションステートメントを活かすために4〜6

第四回 「ミッション」(2015年12月15日号)

 

 注意してみると「ミッションステートメント」は街のいろいろなところに掲げられています。その多くは飲食店などの接客業ですが、企業理念なども同じものと言えるでしょう。「社是」を掲げる企業はむかしからありましたが、それは基本的に社員のためのものであったのではないでしょうか。自分たちはこんなことを大切にしている、われわれの基本姿勢はこれだということをあえて言葉にして広く知らしめるというスタイルはそれほど古いものとは思いません。

 

 教会は福音を伝えるために存在します。ミッションの語源は「送る」ことを意味するラテン語ですが、聖餐式の最後に「行きなさい、これで散会します」“Ite, missa est”と告げた言葉にもこれが使われています。聖公会の中にも聖餐式を「ミサ」「ごミサ」という方がおられますがこれは明らかな間違いです。カタカナで「ミサ」と言えばローマ・カトリック教会が行うあの儀式のことであって、聖公会では「聖餐式、感謝の祭儀(ユーカリスト)」が行われるのではあって「ミサ」は行いません。とはいえ、私たちの聖餐式と「送り出されること」とは深いつながりがあることは確かです。

 

 教会のミッションはまさに福音を伝えるために送り出されることがですが、どのように伝えるかは千差万別です。「名は体を表す」という言葉もありますので、私たちはこのような教会ですと公言することで福音に生きる素晴らしさを表現することも一つの方法ですし、一旦目標を掲げ、それを公言してしまうことで励みとなるのは確かです。禁煙やダイエットなど、密かに行うよりも周囲に宣言した方が成功率が上がることは多々あります。

 

 あるいは「不言実行」も大事な姿勢です。そして「百聞は一見に如かず」でもあります。私たちが実際に礼拝を大切にしてすべての人と共に歩んでいること、これにまさる説得力はありません。イエス様は素晴らしいよ、祈りの生活は大事だよ、聖書を読もう、礼拝に参加しようと言葉で百回言うよりも、魅力的に生きるクリスチャンの姿そのものが伝道であり、宣教であり、証になるはずです。

 

 教会が世界に向けて発信するメッセージは単純です。ナザレのイエスは十字架で殺され復活した、そのイエスこそ救い主であり、イエスに従うことで人間は幸せになれる、ということです。教会は、十字架を掲げ自らを「キリスト教」(救い主に従う群れ)と公言し、自分たちを「キリスト者」(救い主に従う者)と名乗ることでこれらのメッセージを伝えてきたのです。すっかり見慣れてしまった十字架、ありふれてしまったキリスト教という名前が意味することを、誰にでもわかりやすい言葉で、自分たちにとって現実味のある内容で表現するのがミッションステートメントです。そしてこれは企業が掲げる対外的な「目標、行動、義務」のようなものではなく、メンバー一人ひとりが自分たちの姿を反省し初心に立ち返るために掲げる社是のようなものと言えるでしょう。それが実行できていると断言できなくても、こうすることが本当だと信徒みんなが知っている。私たちのミッションステートメントはそういうものではないかと思うのです。

 

 


第五回 「ステートメント」(2016年2月15日号)

 ステートメントstatementは、宣言とか声明、論述、申し立てという意味の言葉ですがstateとは立ち位置、現状のことでもあります。ミッションステートメントは自分たちが初心に帰るための「社是」のようなものでもあると同時に自分たちの現状を認識し立ち位置を示すためのものでもあります。わたしたちが「礼拝を大切」にして「すべての人と共に歩」む教会だと胸を張って言えればいいのですが、残念ながらそうではありません。今回は、目標に向かうためにはどうしても欠かせない作業、現状認識について考えたいと思います。

 

 どうすることが大切にすることか、様々な意見を取りまとめることは容易ではないことはすでに述べた通りです。けれども、今のわたしたちにとって重要なことは礼拝や宣教に関する意見の調整や議論ではなく、一人ひとりが本当に自分自身と隣人とを大切にしているのか、互いを大切にし合う教会になっているのかということです。例えば、「あの人は礼拝に熱心ではない」とか「礼拝を軽んじている」などと思ってしまう時、わたしたちは相手に対する優しさと思いやりを見失ってはいないでしょうか。

 

 信仰の情熱が冷めるとか、文字通りの怠惰さもあるでしょう。それも長い人生の一場面ですから周囲がとやかく言えることではありません。あるいは仕事や家族の関係も礼拝出席を難しくする要素ではありますが、いつか状況が変わることはあるはずです。数十年ぶりに来ても、教会はここにあり続けます。周囲が心配しなくてもご本人がよくよくわかっていることも多々あるはずです。けれどもそれだけではありません。どうしても人の中に入っていけない気分の時もあるし、教会に行けばだれかと顔を合わせて挨拶もしなければならない、そう思うと気が重くなってしまうのは普通のことです。「普通のこと」などと申し上げれば、「自分はそんな時でも頑張ってきた」という反論が聞こえて来そうですが、いつでも頑張れる強いタイプの人が怖くて、ますます教会の敷居が高くなるということもあるかもしれません。これは教会に限らず人間社会の現実です。強い人は弱い人を叱咤激励し、弱い人はプレッシャーに押しつぶされそうになる、そんな悪循環はどこにでもあります。

 

 「強い人、弱い人」などと分類することが間違っているのかもしれません。誰であれ、強い時も弱い時もあるでしょう。そうであればなおさら、相手に対する配慮、思いやりの心、優しさが大切であることが身にしみてわかるのではないでしょうか。互いの違いが問題なのではありません。違う仲間同士が共に歩むことが大切なのです。違いを乗り越える力は相手を大切にする心、つまり愛でしかないのだと教会は語り続けてきたはずです。

 

 

 

第六回 「リハーサルと本番」(2016年4月15日号)

 わたしたちの教会が魅力的で素晴らしい教会であるためには、互いに配慮し合う雰囲気、愛をもって関わる雰囲気に溢れていなければなりません。そのことを象徴的に表すものが「礼拝」であり、「礼拝」はクリスチャン一人一人が成長するために必要な訓練の場といってもいいかもしれません。

 

 クリスチャンにとって礼拝は大切であり、主日礼拝こそは信仰生活の中心だ、という言葉に間違いはありません。そうであればこそ、礼拝になかなか出席できない方々に、教会として関心を向け続ける必要がありますし、礼拝出席から遠ざかっている方々に対し、主日礼拝を中心とした信仰生活の回復を呼びかけたいとも思います。

 

 ところで、礼拝は信仰生活の中心であっても、信仰生活の中身が礼拝だけであるとしたら本末転倒です。たしかに祈祷書によってささげられる礼拝の中に、信仰上大切なすべての要素が含まれているといっても過言ではありません。けれども、教会でささげられる礼拝が信仰生活の本番であってはならないと思います。

 

 主日礼拝、特に聖餐式は信仰生活にとって本番ではなくむしろリハーサルです。み言葉を聞いて学ぶ、感謝と賛美をささげる、懺悔をし世界と隣人のために祈る、与えられた恵みを分かち合うなど、これらの一つ一つは生活の中で具体的に実践されるべきことがらです。信仰生活にとって何が大切か、コンパクトにわかりやすく示しているのが礼拝、特に聖餐式です。わたしたちは聖餐式によって教えられ、訓練され、現場である日常へと派遣されるのです。

 

 「練習は裏切らない」とはスポーツ選手たちがよく口にする言葉です。音楽家も、本番で全身全霊を込めた自由な表現をするために、練習では機械的な繰り返しを怠りません。練習ではうまくいくのに本番で失敗するのは残念なことです。礼拝中は素晴らしい信仰者なのに、日常の現場でそうではないとすればどうでしょうか。

 

 リハーサルには顔を出さず、本番の舞台でいきなり素晴らしい演技をする天才はいるかもしれません。準備も訓練も不要、リハーサル無しでいきなり日常生活で立派な信仰的実践ができる人もいないとも限りません。けれども教会は、主日を中心とした共同の礼拝によって信仰生活を振り返り、課題を確認し、必要な訓練を受けて方向を修正する。信仰的訓練、クリスチャンとして生きる練習を積んで新たに本番の舞台へと赴くことを大切にしてきました。社会で起こる出来事の諸要素が教会の中にもあるわけですから、信仰的にそれらをどう解決するかという体験の積み重ねが、わたしたちの日常にもヒントを与えてくれるはずです。

 

 「私たちは礼拝を大切にします」。礼拝は本番である日常生活の中でよりよく生きるために必要不可欠な訓練とエネルギー補給の場であるからです。

 

 

 


ミッションステートを活かすために1〜3

東京聖テモテ教会教報「葡萄園」に連載された「ミッションステートメントを活かすために」です。

 

第一回:「大切にする」とは(2015年6月15日号)

 

 私たちは礼拝を大切にします。そしてすべての方を招き入れ、共に歩んでいきます。

 

 私たち東京聖テモテ教会にはミッションステートメントがあります。すべての教会がこのような宣言を掲げているわけではありませんが、私たちにこのような宣言があることを誇らしく感じます。赴任と同時にこの宣言を目にした私は身も心も引き締まる思いがしました。教会として大切にすべきことを簡潔にまとめた素晴らしい文章です。そして簡潔で素晴らしいだけに、難しさも感じます。よく理解し自分たちのものにするには繰り返し意味を考える作業が必要でしょう。その作業を通して私たちの新たな課題が明らかになり、同時に希望のありかが明確になるはずです。これからしばらくの間、私なりにこのミッションステートメントに取り組んでみたいと思います。

 

 第一回は導入編、取り組みの元となる私自身の問題意識について書いてみようと思います。簡潔で素晴らしいがそれだけに難しい、と感じたのはなぜかについてです。

 

礼拝を大切にする?
 「礼拝を大切にする」という表現に異論のある人はいないはずです。けれども、「大切にする」とはどうすることか、一人ひとりの考えは違います。ある人は、大切な聖餐式は毎日行うべきだと考えますが、司式者も会衆も最善の備えをして臨むべき聖餐式であるから、頻繁に行うことで「自分に対する裁きを飲み食いする」(コリント前書11章29節)ようなことがあってはならない。つまりほんとうに大切にしようと思えば毎週どころか月に一度でも無理があると考える人もいます。

 

 ある人は、10分前には着席し黙想して待つのが礼拝に出るということであり遅刻などもってのほかと考え、またある人は、退堂聖歌に間に合うだけでもいいから必ず礼拝には出るべきだと考えます。ある人は、礼拝出席は信徒の義務であると言い、しかしある人は、自分の意思で主体的に参加してこそ意味があるのだから、習慣化した出席など礼拝にふさわしくないと言います。

礼拝を大切にするために祭服や所作、儀式的な美しさを重視する人もいれば、そのような要素はかえって礼拝の本質を見失わせると考える人もいます。多様な楽器を用いるべきだと思う人、パイプオルガン以外はだめだと考える人、ピアノやギター、ドラムも導入したいと考える人、楽器は不要、いや歌ですら邪魔だと考える人。どの考えも等しく「礼拝を大切にする」という思いから出てきたものですが、意見の食い違いをまとめることは簡単ではありません。

 

 どうすることが「大切にすること」なのか。ミッションステートメントを理解する上でこれが第一のテーマであり、根本的な課題であると思います。

 

 

 

 

第二回:「すべての方」とは(2015年8月15日号)

 前回は「大切にする」とはどうすることか、それは人それぞれ考え方が違うものだということがテーマでした。第二回ではその続きとして、「すべての方」とは誰かを考えたいと思います。

 

すべての方とは誰のこと? 

 私はミッションテートメントのこの部分を見て感動しましたが、一番難しいのもこの部分ではないかと感じました。教会は人を「招き入れ、共に歩んで」いきます。単純に、建物としての教会を考えて見ましょう。すべての方は東京聖テモテ教会に立ち入ることが許されているし歓迎されているといえるでしょうか。

 

 盗みに入るような悪意の人間を想定する必要はありません。けれども、「すべての方」という言葉の中に本当に「すべての方」が想定されているでしょうか。私たちは、自分たちが大切にしているものを軽んじられることで傷つき不愉快になります。神学生のころ、実習先のある教会での経験です。クリスマスイヴの深夜礼拝には盛り場から流れてきた酔客も見物にやってきました。礼拝をするという意識の全くない人々、けれども教会のクリスマスに興味のある人々の来訪に複雑な思いがしたものです。

 

 「すべての方」と言いながら、私たちは自分たちの生活の範囲、経験、常識を前提に考えることしかできません。ですから実際には文字通りの「すべての方」を想定してはいないことを認める必要があります。こうなると、歓迎してもらえるはずだと信じて教会を訪ねた人々に失望を与える事態が起こったとしても不思議ではありません。

 

 「疲れたる者、我に来れ。我、汝を休ません」という掲示板の聖句を見て教会に入ったある方は、何しに来たのかと言わんばかりの冷たい対応に引き上げざるを得ませんでした。疲れていたから休みたかったのに、外は暑いし喉も渇いて、ちょっと一息つきたいと思って入ったらとんでもない目にあったと、その方は苦笑していました。礼儀正しい求道者の中にも、私たちが想定していない人々がいるはずです。

 

 建物に入るだけではなく、教会の一員、仲間として共に歩む人々に私たちはいかなる条件も加えません。そして私たちが今まで身近に接してこなかったようなひと、生活の背景や「常識」が異なる人々であっても、イエスの招きに応じて食卓に集うのであれば、祈祷書を通して礼拝を捧げようとするのであれば、私たちの教会は文字通り「すべての方」を仲間として受け入れ、共に歩むことを公言しているのです。

 

 これはタテマエではなく重大な決心であり覚悟です。仲間として受け入れたからにはそこに差別があってはいけません。仲間になったからにはテモテの流儀に合わせろと強いるようではいけません。誰もが大切にされ自分らしさを認められるのでなければ、教会はキリストを頭とする家族とは言えないはずです。すべての方を招き共に歩むのはキリスト御自身であり、わたしたちはその事実を証明したいと切に願っているのです。

 

 


第三回 「共に歩む」とは(2015年10月15日号)

 これまでミッションステートメントを巡って、どうすることが「大切にする」ことなのか、「すべての方」とは一体誰のことなのか、を考えてきました。三回目は「共に歩む」とはどうすることかを考えてみたいと思います。簡潔で素晴らしい私たちのミッションステートメントが現実的なものとなるためには、この難しい課題を避けて通るわけにはいきません。

 

 「共に歩む」という言葉は教会の内外でよく耳にする言葉です。震災の後、日本聖公会が立ち上げたのは「いっしょに歩こう!プロジェクト」でした。震災対策や被災者支援のような名称ではなく、「いっしょに歩こう!」という表現に違和感を持った方がいたかもしれません。私もそう感じた一人です。日本語の微妙なニュアンスにこだわれば、「いっしょに」という言葉は相手の許可なく使えない表現ですから、「いっしょに歩かせていただく」ということになりますが、それもむしろおこがましい感じになるかもしれません。

震災以来「絆」という言葉も流行語のようになりましたが、近頃目立つのが「寄り添う」という表現です。相手の歩みを邪魔することなくそっと寄り添う。上から目線で「助けてやる」という姿勢を批判する意味からでしょうか。謙遜で優しさの溢れる表現ですが、言葉が美しければ美しいほど、現実にできることとのギャップが気になってしまいます。

 

 イエスは人々と共に歩みましたが、イエスと共に歩んだ人物も聖書には登場します。キレネのシモンはイエスとは無関係でしたが、突然ローマ軍に徴用されイエスの十字架を担がされました。わずかな時間だったはずですがこの経験が彼の人生を変えてしまいます。その後の歩みは聖人伝として描かれています。聖書の中で最初にイエスと共に歩んだのがこの人物であり、それは十字架への歩みでした。アリマタヤのヨセフは金持ちだった考えられています。イエスを葬った新しい墓が彼の所有だったからです。資産家の彼は社会的にも認められる立場だったに違いありません。しかし、墓を提供することでイエスの弟子だとカミングアウトして以降、同じような生活、社会的信頼を維持できたとは考えられません。「共に歩む」とは仲間であると公言し同じ運命を受け入れることを意味しています。

 

 「共に歩む」とは限られた時間の中でできることではありません。都合のいい時だけそっと寄り添い、忙しくなればスッと離れる、しんどくなれば距離を置くということではないはずです。ですから共に歩むという言葉にはある種の覚悟が伴っていますし、タテマエや流行りの表現として使うわけにはいかない言葉だと思います。教会が「共に歩む」と言う場合、それがイエス・キリストの招きであると信じること、イエスがおられるところに自分の身を置きたいと願っていることが前提になるはずです。この信仰と願いがあってこそ私たちは「すべての方と共に歩む」と言うことができるはずです。

 


「荒野で叫ぶ者の声がする」

「荒野で叫ぶ者の声がする」(マタイによる福音書3章3節)

(東京聖テモテ教会教報「葡萄園」2016年12月)
司祭アンデレ香山洋人


 洗礼者ヨハネは砂漠の行者であり預言者であった。彼は「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜」(4節)を食べ物としていたが、このような世捨て人的な生活は苦行を連想させると同時に自然回帰の自由な暮らしをも連想させる。今も、都会を離れて田舎で暮らすナチュラルライフへの憧れがあるが、洗礼者ヨハネの場合、大自然の中で自由に生きたということではなさそうだ。彼のライフスタイルはむしろ修道生活、苦行僧のようなものだった。すべてを捨てて信仰の道を徹底させる、それが彼の願いだったのだろう。


 そんな洗礼者ヨハネを慕って「ヨルダン川沿いの地方一帯」(5節)から人々が押し寄せて教えを聞いたが、その中にはファリサイ派やサドカイ派の人々が含まれていたという。有名大学出身者、一流企業に勤める人々、政治家、裁判官などを連想すればいいかもしれない。地位や名誉、富や安定した暮らしを手放していた彼にとって世間の評判などどうでもよかっただろう。洗礼者ヨハネの説教は極めて厳しいものであり、聞いた者には実践が要求されていたが、それでも多くの人々が聞き従った。カリスマ性だろうか。彼の言葉には説得力があり、人々の心に染み入る何かがあったようだ。


 洗礼者ヨハネのテーマは「悔い改め」だった。「悔い改め」の前提条件は罪の自覚に他ならない。このままではだめだという自覚、今の自分には問題がある、責任は自分自身にあると認めることがその第一歩となる。これは内心の問題にとどまらず生活全般に及ばなければならない。仕事や人間関係全体を振り返らなければならないし、政治家であれ経済人であれ社会的な過ちを認めて償う必要があった。権力者に対しても率直な苦言をはばからなかった洗礼者ヨハネの声はヘロデ王に届いていた。横暴な暮らしぶりを批判されたヘロデは洗礼者ヨハネを殺害した。影響力が大きかっただけに見過ごしにはできなかったのだろう。


 イエスは洗礼者ヨハネの下で過ごした。そして、多大な影響を受けたことは確かだが、両者の違いを明確にしているのは活動の現場だろう。洗礼者ヨハネは「荒野で叫ぶ声」であり、彼は人里離れたヨルダン川で厳格で純粋な宗教的生活を送っていた。しかしイエスは荒野を後にして人々の暮らす街、猥雑で混沌とした人間の現実を自らの現場と定めた。欲望、嘘、偽善、噂話、裏切りが渦巻くあたり前の人間の暮らしの中でイエスは神の国の到来を宣言した。悪が栄え正直者がバカをみる世の中で、それでも悔い改めて福音を信じようと人々に呼びかけた。洗礼者ヨハネは王やその軍隊をも恐れない勇者であり、イエスは人間の弱さに向き合ってそれを受け入れることのできる真の勇者だった。


 正義と平和を追い求める預言者の声はこの時代にも響いているだろうか。富と情報に満ち満ちた都会の中で翻弄される人々の渇いた魂にイエスの福音は染み渡っているだろうか。主は来られた。われわれの生活の只中に確かにお生まれになった。その方は人間に寄り添って歩み励まし祝福を与えられた。そして教会は喜びの声も高らかに福音を宣言する。今や教会が荒れ野で叫ぶ声となり、神の国の到来を宣べ伝える声とならなければならないはずだ。

 

 

 


2016年12月25日、A年降誕日、東京聖テモテ教会

2016年12月25日、A年降誕日、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 聖公会はクリスマスの物語を多様な角度から描き出している。全体を知るためには降臨節第四主日からすべての礼拝に出る必要があるが、降誕日当日のこの礼拝、10時半の聖餐式の日課、ヨハネによる福音書1章には天使も羊飼いも登場しないし夜空も星も出てこない。抽象的な言葉が続く今日の日課にがっかりする人もいることだろう。多くの人がイメージするクリスマスの物語はルカとマタイが伝えるあの物語だ。マリアのもとに天使が現れて受胎を告げる、ヨセフのもとにも天使が現れてマリアと幼子を守るように告げる、そして羊飼いと東方の学者たちには御子の誕生が予言され、ついに彼らは幼子と出会うという美しい物語だ。

 

 羊飼いたちは、天使が告げたとおり飼い葉桶に寝かされた幼子を見る。この幼子が、先祖たちが待ち望んだ救い主だということを彼らは知らされている。ついにこの地上に平和が到来する、ローマ帝国の圧政に苦しむ人々であればこそ、その感激は大きかっただろう。彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰っていった」とある。羊飼いたちは感激し涙ながらに神に感謝したことだろう。けれども彼らは再び羊たちとともに暮らす日常へと戻ったということだ。

 

 東方の学者たちも同じだ。星の導きで探し当てた家の中にはマリアとヨセフ、幼子イエスがいる。自分たちの長年の研究が報われたという充実感もあるだろうし、まだ幼いとは言え預言者たちが語り伝えた救い主についに出会ったという感激はどれほどのものだっただろうか。彼らはヘロデ王に対して事の次第を報告しなければならなかったが、天使の導きによってそれをせずに故郷へと帰っていった。「別の道を通って」と書いてあるからヘロデの追手を逃れるためだったのだろう。あるいは、これまでとは違う生き方へと導かれたことが象徴的に表現されているのかもしれない。学者たちはとてつもない事件に遭遇したが、結局は自分たちの国、自分たちの日常へと帰っていった。

 

 クリスマスの祝いは教会の中でも格別だし、日頃教会と全く縁のない人々も含め、街全体がクリスマスムードに包まれるというのはとても素敵なことだ。この礼拝が終わる頃はクリスマスムードもすっかり冷め正月の準備に切り替わっているに違いない。教会の暦ではクリスマスシーズンはまだまだ続く。そんなんことも知らないでと冷ややかな目を向ける必要はない。熱しやすく冷めやすいと悪口を言う必要はない。聖書に出てくる羊飼いや学者たちもおそらくそうだったに違いない。救世主の誕生を目撃した彼らであっても、その後は再び日常に戻り、自分たちに託された仕事にいそしんでいる。マリアとヨセフはもちろんそうだ。不思議な出来事を心に収めたマリアであっても、この先の日々を祈りと黙想のうちに過ごすことなどできるわけはない。身近に手伝ってくれる人もいたことだろうが、生まれたての赤ちゃんを育てる親の日常は誰もが知る通りだ。ヨセフもそうだ。マリアやイエスを気遣いながら必死で働いて生活費を稼ぐ。天使のお告げ、不思議な人々の来訪はとっくに昔のことのように思えただろう。

 

 日常に忙殺される。これがわれわれの現実であり、聖書に出てくる人々もおそらく同じように日々の暮らしに押しつぶされながら生きていたのだろうと思う。ただ、羊飼いも学者たちも、もちろんマリアもヨセフも、あの夜の出来事を忘れることはできなかったはずだ。しっかりと目に焼き付いたあの光景が、日々の暮らしの中で浮かぶこともあっただろう。あの夜、幼子イエスに出会った彼らはもはやそれまでの彼らではない。複雑な人生の中で真実とは何かを目の当たりにした。神はわれわれを見捨てはしなかったという確信を得た。たとえ彼らの日常が特別なものに変わることは無かったとしても、彼らの心の中に宿った確信は日々の暮らしのいたるところに影響を及ぼしたに違いない。彼らにとって、天使の語りかけは夢物語ではなくなったし、預言者の言葉が真実であること、星の動きにしるしが現れることも確かな知識となった。こうして羊飼いと学者たち、ヨセフとマリアの日常は「神がともにある」という確かなものに支えられる日々へと変わったはずだ。

 

 イエス自身に招かれてわれわれはこの食卓に集っている。クリスマスだから教会に行ってみようとか、平日だと仕事があって行けないが今年は日曜日と重なったのでちょうどいいとか、教会から案内が届いたからとか、我が家は毎年そうしているからとか、クリスチャンとしては当然だとか、われわれにとって今ここにいる理由はそれぞれだ。もちろん一人ひとりがはっきりとした意思を持って、あるいは万難を排してここに集ったのは事実だろう。けれども、イエス自身の招きがなければわれわれはこの食卓に集うことはできなかったはずだ。羊飼いたちや東方の学者たちが星や天使に導かれたように、われわれも実は星や天使によって、あるいは何かもっと違う呼びかけに導かれてここに集められている。

 

 洗礼を受けた者であれば、あるいは大人になって堅信を受けた者であれば、イエスに招かれたあの瞬間の出来事を記憶しているだろう。あるいは聖書に触れたとき、礼拝に出たときの感動があるはずだ。心優しい人々とのふれあいとか、だれかの祈りや言葉に感動したこともあっただろう。素晴らしい文学や映画、音楽に感動して教会と出会った人々もいるだろう。もちろんその感動や感激は一瞬のものであり、それに続く日常の複雑さの中でいつの間にか忘れ去られてしまったのかもしれないし、いつもそれを思い起こしては心を新たにしてなどいないだろうが、立ち返るべき原点があるということがわれわれにとって何ものにも代えがたい特別な何か、恵みそのものであるに違いない。「インマヌエル、神がともにいる」とはそういうことではないかと思う。

 

 


2016年12月24日、A年降誕日第一聖餐式、東京聖テモテ教会

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(マタイによる福音書1章18〜25節)
2016年12月24日、A年降誕日第一聖餐式、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 「イエス・キリストの誕生の次第」。これはイエス・キリストのゲネシス(ἡ γένεσις)についてという意味だ。ゲネシスとは旧約聖書では創世記のこと、神によってこの世界が作られた次第についてのあの物語だ。つまりこれは天地の創造ならぬイエス創造の物語ということになる。もちろん神がこれを造ったと聖書は語る。

 

 創世記で神は「光あれ」と言った。天地の創造は神の言葉によって行われた。そして今日の福音書、イエスの創造には「天使」と「聖霊」が関与する。天使も聖霊もわれわれの目には見えないが、きっとそのような力が存在してわれわれの人生において何かの役割を果たしているに違いない、という漠然とした想いはあるだろう。そうあってほしいという願望とか期待を持つ人も多いし、それにとどまらず天使や聖霊の関与を確信している人々もいる。クリスチャンのことだ。

 

 宇宙創造の次第について、科学者の見解と創世記の記述とでは大いに違う。わたし個人の考えを述べれば、ビックバーン仮説とか超ひも理論などが理解できるわけではないにせよ、きっとそういうことに違いないとは思っている。たしかに聖書は天地の始まりの次第について述べてはいるが科学の教科書を読むように聖書を読む必要はないだろう、とわたし個人は考えている。同じように、「イエス・キリストの誕生の次第」についてもマタイが語ったことがその全てだと考える必要はない。そもそもここにはマリアもエリサベトも登場しない。この説明で全てが解き明かされていると考える必要はない。

 

 しかし重要なテーマがある。それはイエスの誕生、イエスという一人の人物というよりも、神が人類に希望を託し確かな希望を約束したということだ。そしてこの驚くべき出来事を考えるうえでどうしても理解しておきたいことは、そこには天使と聖霊の関与があるということだ。まるでおとぎ話のようで気に入らないという方々には、目には見えない何らかの力の関与があると説明しておきたい。それはロマンチックだが非科学的で迷信的だとおっしゃるなら、われわれの現実は今われわれ自身が目に見ていること、理性で捉えていることが全てではないという説明ではどうだろう。

 

 この考えは確かに非科学的ではあるし合理的でないが、こんな古代人的な物言いにも確かな利点がある。それは、天使と聖霊の介入を計算に入れている限り、われわれは決して絶望することはないし八方塞がりにもならないということだ。「わたしは失敗しない」と豪語する医者のドラマが人気を博しているが、その番組にこの前「神様のプレゼント」などという非科学的なセリフが登場した。やはり神様は必要だなどと言うつもりはない。患者を前に「わたしは失敗しない」と豪語する架空の外科医をわたしは尊敬する。尊大だといえば尊大だが、とてもわたしの手には終えませんと謙遜ぶって尻込みする外科医に執刀してほしい患者はいないだろう。やるからには失敗しないと断言すべきだ。尊大だからではない、神を信じないからではない。使命感と責任感があり、日々の努力を怠らず、目の前の現実に誠実に向き合っているならば、自分は必ず成功する、決して失敗しないと断言していいのだと思う。

 

 もちろん人間は失敗をする。能力には限界がある。だから先回りして失敗するかもしれませんと言っておいた方が気が楽かもしれないとは思う。しかし信じる者の生き方はそうではないと思う。「人事を尽くして天命を待つ」、これが信じて生きるということだ。人間の手を超えた世界を大前提として受け入れる。そうだからこそわれわれは人間の能力を最大限に発揮することができる、最善をつくすことができるということではないだろうか。クリスマスの情景に当てはめるなら、ヨセフは自分なりの「正しさ」に従った。もちろん彼は一人の人間として苦しみ、嘆き、あるいは憤ったに違いない。事態を「表ざたにする」選択肢もあったにもかかわらず彼はそうはしなかった。彼は必死に悩み、考え、正しく生きようと苦闘したあげく一つの結論に到達した。それにもかかわらず、自分が導き出した正しい答えを全否定する天使の声を、ヨセフは受け入れた。現実にはありえないにも関わらず、あれは聖霊の働きであると認めることができた。おそらくマリアもそうだった。必死になり、苦闘した末の結論には聖霊の導きがあるはずだ。それを神からのプレゼントと言ったとしても決して人間の敗北とは思わない。

 

 


2016年12月24日、A年降誕日前夕「夕の礼拝」、東京聖テモテ教会

2016年12月24日、A年降誕日前夕「夕の礼拝」、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 この季節、今年一年間を振り返るようなテレビ番組や新聞雑誌の特集が登場する。オリンピックなど楽しいイヴェントもあったが悲しい事件、悲惨な出来事も多くあった。トルコやヨーロッパにシリアからの難民が押し寄せ大問題となったが、おそらくこれは今後も大きな問題であり続けることだろう。ある保育園で、日本には難民の人たちは来ないのと質問された。今すぐ多くの難民が日本に押し寄せてこないのは遠く離れているからだろう。しかし日本は基本的に難民を受け入れない。もし助けを求める人々が来たとしても受け入れてもらえないということを覚えておきたい。

 

 イギリスの聖公会が難民問題と取り組んでいることは以前紹介したが、ヨーロッパ各地で教会が難民受け入れに積極的に取り組んでいることはキリスト者として誇らしいことだ。場所を提供することだけではない。言葉や文化の違う人が地域社会に馴染むようにしなければならないし、仕事や安定した暮らし、あるいは子どもたちの教育など日常的な課題がいくらでもある。受け入れるとひとことで言ってもこれは並大抵のことではない。日本では原発事故で汚染された地域から避難してきた人々に対するいじめや差別が報道されている。こんな排他的な社会が海外からの難民など受け入れることはできないだろう。日本が誇る「おもてなし」の心は、お財布をもった観光客のような自分たちに都合のいいゲスト向けのものであって、助けを必要としている人々には向けられないのがこの社会の現実だ。

 

 今から半世紀以上前、労働力を補うためにスイスがトルコ人労働者を迎え入れた。トルコはイスラム教国でもあるし文化的なギャップも大きい。そのときフリッシュという作家が「スイスは労働者を受け入れたつもりだったが、来たのは人間だった」という言葉を残した。今、ヨーロッパではこの作家の文章が再び脚光を浴びているそうだ。「われわれは難民を受け入れたはずだったが、来たのは人間だった」。

 

 困っている人を助けよう、マイノリティの人権とか被差別者と連帯するなどと言う。もちろんこれらは重要なことであり、日本でも教会は人権擁護のために活躍し一定の存在感を示している。しかし、そこにいるのはマイノリティとか被差別者という特別の存在ではなく当たり前の人間だ。大切なことは、人間を大切にする、人間と関わるということであり、だから当然そこには相手への敬意、理解しようとする気持ち、そしてお互いに忍耐が必要となる。もちろんそこには新たな友人を得ることの喜びがあるだろうし、何かの折には互いに助け合うことが大前提とされているはずだ。

 

 ヨーロッパに流入したのは難民ではなく人間だ。食べ物も住まいも仕事も必要であり、多くの人は家族でやって来た。人間である以上、自分の好きな食べ物があるし慣れ親しんだ文化がある。おそらく多くの人は今までと同じように祈りたい、自分たちのやり方で神を讃えたいだろう。子どもたちは学校に行きたいだろうし、働けばいつかは出世もしたいだろう。人間である以上友達も欲しいし恋もする。当たり前に暮らしていた当たり前の人間が、戦争によって慣れ親しんだ家を失って命からがら逃げてきたということだ。その中には親切な人も意地悪な人もいる。おとなしい人も乱暴な人もいる。もちろん、どんな街にもそういう人はいる。善人だから助けてあげよう、おとなしい人だから助けよう。郷に入れば郷に従えだと言って彼らに厳しく接する人は、「人間とは何か」という根本的な問題をふたたび考える必要があるはずだ。自分たちに都合がいいから、自分たちに理解できるからではなく、命ある存在だから大切なのであり仲間なのだ。

 

 ルカ福音書が伝えるクリスマス物語は、マリアとヨセフが旅をしてベツレヘムにたどり着いたという物語でもある。彼らにとってここは外国ではなかったが見知らぬ土地であることは間違いない。ナザレから歩けば四日はかかるだろう。マリアが身重であればもっと時間がかかるかもしれない。「聖家族」だと知って親切にしてもらったわけではない。人々のあたりまえの善意が彼らを守っただろうし、ヨセフとマリアは必死になって旅先で泊まる場所を見つけ、食べるものを探したに違いない。そしてついに出産まで経験することになる。キリスト教は二千年にわたって旅先で出産する聖家族を中心にクリスマスを祝ってきた。見知らぬ人々の善意、マリアとヨセフの必死の思いによってこの地上に生を受けた幼子イエスの誕生を祝ってきた。聖家族はこのあとエジプトに向けて文字通りの難民生活を送ることになる。

 

 自分たちに都合がいい人を選別する、という利己的な考えを持つのも人間だ。苦手な人と付き合いたくないと思うこともあるし、妬んだり恨んだりもする。自分の努力が認められないことが悔しくて、つい誰かに八つ当たりをする。これも普通の人間のすることだ。弱さは誰もが持っている。だから誰もが人を傷つけることがあり、苦しめることがある。それと同じように誰もが人を慰めることができるし守ることもできる。相手の痛みがわかるから、助け合って生きていこうと思えるのが人間だ。

 

 聖書さらには、見捨てられた人々の側に光を当て、見捨てられた人々が真実を知っていると語っている。困っている人、助けを必要としている人、見捨てられた人々に手を差し伸べましょうということではなく、難民の只中に救い主がいる、命からがらたどり着き、鉄条網に囲まれたキャンプで震える人々の中に御子がいる。救いはそこから始まるのであって、われわれは手を差し伸べるのではなくその場に馳せ参じて自分たちの宝物をささげようではないか、というメッセージだ。キリスト教が二千年に渡り、旅先で出産する聖家族を中心にクリスマスを祝ってきたのはそういうことだ。見知らぬ人々の善意、マリアとヨセフの必死の思いによってこの地上に生を受けた幼子イエスの誕生を祝ってきた教会は、いまこのとき、同じような思いで必死に生きようとする人々を無視することはできない。

 


降臨節第三主日

 一年前の降臨節第三主日に「ローズサンデー?」という記事を書いた。読者の反響など気にせず書くブログなのに、ちゃんと読んでコメントをくださる方もいる。さて2016年の降臨節第三主日はどうするか。その答えは11月に入るとすぐに出さなければならなかった。当然のことだ。アドベントリースに使うろうそくを買いに行く都合があるからだ。ローズ色が一本入ったセットが売られている。これを買ってくれば従来と同じ「ローズサンデー」を継承することになるが、今年はそれをやめて全色白にした。いつも聖卓脇に置いている燭台のろうそくをそのまま使えばわざわざ買いに行かなくてもいい。合理的だ。

 

 「ローズサンデー」を巡る考えは幾人かの方には伝えてある。予想通りの答えだが、先生のご判断でということになった。とはいえ、なぜ今年は真っ白なのかと気にする人もいるだろうから、降臨節第三主日にはその話をしたほうがいいという助言も受けた。そうすることにしよう。

 

 同じ紫の季節でも降臨節と大斎節とでは趣旨が違うという「証拠」をひとつ見つけた。聖歌54番は「降臨節」に分類されているが、最終節に注記があって「大斎節には5節を省く」とある。5節の歌詞は次の通りだ。

 

 聖なるかな 民すべてよ

 神に感謝をささげよ

 喜ばしき たたえ歌を

 この祝いの よき日に

 

 この歌詞は大斎節には不向きだが降臨節には適している、と「日本聖公会聖歌集」は考えている。見落としでなければ、聖歌集の中でこの注記はここだけだ。日本聖公会にとって大斎節は慎みと克己の季節であり「喜ばしきたたえ歌、祝いのよき日」という言葉はふさわしくない。しかし降臨節であればそれは許容できるということだ。ある時代、どこかの地域では降臨節を慎みと克己の季節として過ごしていた敬虔な人々がいたのだろう。そこには修道者に限らず街で暮らす人々も含まれていたのかもしれない。この伝統は日本のローマ・カトリック教会にどのくらい浸透しているのだろうか。

 

 二主日分も頑張れば一息つきたいほどの厳格さがどのようなものかわからないが、現代の教会の場合、あらゆる機会をとらえて違いを出しておかないと商業主義に飲み込まれてしまうという危機感があるのはよく分かる。街のクリスマスとは違うんだぞという異議申し立て、教会のプライド、「俗世」と一線を画した「真のクリスマス」を示したいという切なるメッセージが柔らかなバラ色に込められている、そう思えばいいのだろう。そんな気持ちを理解しないわけではないが、来年は宗教改革500年だ。「すべての道はローマに通ず」になりがちな聖公会の現状への違和感は無視しないでおきたいと思う。

 

 


「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」

「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカによる福音書17章11節)

(東京聖テモテ教会教報「葡萄園」2016年10月)

司祭 アンデレ香山洋人

 

 「人をつまずかせてはならない」(17:1〜)、「謝る相手を許してやれ」(17:3〜)という教えに続いて、「あなたたちに信仰など無い」(17:5〜)、「仕えることは当たり前だ」(17:7〜)という教えが続く。これらはとても厳しい内容だがキリスト者の心構えと言っていいだろう。

 

 聖書がわざわざこのようなことを記しているということは、言わざるを得ない状況があったのだろう。人をつまずかせて平気でいる人、謝っても許さない人、自分の信仰を自慢し相手を批判する人、そして自分はこんなに奉仕をしているんだと誇らしげな人がいたということだろう。これは聖書の時代だけではなく人間の集まるところであれば必ず見かける風景でもある。

 

 これらは別々のことではなく互いに関係しているのかもしれない。いつもは謙遜さが大事だ、悔い改めが大切だと言っている指導者自身が実際には高慢で人を許さないとか、あるいは悪口を言いふらしたり自慢話ばかりしているとか。言行の不一致はたしかに人をつまずかせる。説得力のあるメッセージとは立派な言葉ではなく誠実で謙虚な姿のことなのだ。イエスはまさにそのようなリーダーだった。

 

 人は誰しもほめられたいし正当に評価されていないのではないかと不安になる。いい評判が広がることを期待する一方、悪い噂が流れているのではないかとおどおどしてしまう。誤解されたくない、ほめられたいという気持ちが不安の原因だ。もちろんこれは信仰においても言えることだが、いうまでもなく神はすべてをご存知だ。

 

 「からし種一粒」ほどの信仰があればどんな奇跡でさえも起こすことができる、願いはすべてかなうだろうというイエスの言葉の意味は単純だ。あなたたちに信仰など無い、教会の中でどんなに偉大な信仰者のように尊敬されている人の信仰であっても、神の目から見ればそれは「からし種一粒」にも満たないもの、つまり無いのと同じなのだ。だから信仰があるとか無いとか、深いとか浅いとか言って比較することの愚かさを知るべきだ。ましてや、それによって人を批判したり自分が高慢になるようなことがあってはならない。われわれがいかに未熟であるか、いかに無力であるか、いかに臆病で自己中心的であるか、神はすべてをご存知なのだ。

 

 「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 

 イエスがこう語ったのは、イエス自身が仕えるものとし生涯をまっとうしたからだろう。もちろんこの言葉は、仕えられる側の人間が仕える側の人間に語ってはならない言葉だ。自分が仕える人間だという自覚がある場合、そして自分の仕事が本当に立派かどうかを正直に考える冷静さがある場合、この言葉は生きてくる。どんなに立派な仕事をしても謙虚でいなさい、高ぶってはなりませんという意味ではない。本当に「取るに足りない僕」でしかないという自覚がなければ、これはかえって嫌味で高慢な言葉となる。われわれは文字通り「取るに足りない僕」であり、「しなければならないこと」をきちんとやり遂げるどころか、自分たちがなすべき務めが何であるかさえ分からずにいるのが現実だろう。命じられたことを果たすことができないわれわれは、謙遜だからではなく神の前に文字通り惨めな姿をさらしながら生きている。

 

 大言壮語はみっともないものだし、口先だけの感謝、心のこもらない謝罪は相手をいら立たせるだろう。正直で誠実であることこそが人間関係の基本だとしても、実はこれが一番難しいことなのかもしれない。虚勢をはらなくてもいいという安心感、人の評価など気にしなくてもいいという安心感はどうすれば得られるのだろう。「もし隣人がわたしより強ければ恐れ、弱ければ軽蔑し、同等であれば詭計に訴える。どんな動機、どんな理由でならわたしはその人に仕え、愛することができるだろうか」(ジャン・ド・ルージュモン)。隣人の前で自由になれること、それこそが解放であり救いといってもいい。それが容易でないことはわかっている。しかし聖書は語る。隣人を自由に愛することのできない人間でも、少なくとも神に対しては自由であれ、正直であれ。虚勢をはらず隠し事をせず、言い訳も弁解もせずに素直な自分であっていい。イエスは無力な弟子たちを招かれた、無力なわれわれを用いて神の愛を世界に伝えようとしておられる。「取るに足りない僕」として正直に生きること。これがわれわれキリスト者の召命ではないだろうか。


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