2016年度春、アジアのキリスト教1、03

17、民衆神学は伝統的な「教会」と世界との境界線をなくす実践、自分がもし信じるなら「分かち合いの家」の人々が信じる神だという言葉こそ理想的 →ヨーロッパのキリスト教にとって世界はキリスト教であり教会でしたし「異教徒」たちは他者であって救済や改宗の対象でしたが非キリスト教圏においてこの図式は成り立ちません。世界の中で教会を相対化する視点が教会の本質を回復するものだと思います。聖書には「木はその実によって知られる」という言葉がありますが、実践こそが最も説得力のある言葉ということですよね。

 

18、実社会を生きる人々にとって意味のあるものでなければ宗教は無意味となる →宗教詐欺の被害にあったという<18>さんですが、「まとも」と思われているはずの宗教であってもきちんと自己相対化、自己批判ができているのかが常に問われる必要があります。「自分たちが正しいと思うからこそ伝道・布教ができる」という考えは間違いです。教会は自分たちが正しいのではなく正しい教えに従って歩もうとしている集団にすぎません。いかなる宗教も「罪人」つまり弱い人間のあつまりです。集団や組織が持つ健全さの指標は内外からの批判を受け入れる余地があるかどうか、メンバーが最高責任者と議論ができるかではないでしょうか。

 

19、市民の力で独裁者を追放し無血で民主主義を獲得したのは韓国だけだという事実は重要だ →フィリピンの「ピープルパワー革命」も無血革命と呼ばれることもありますが最後は軍隊の反乱によって事態が推移しましたので純粋に市民の力だけでとは言えないでしょう。それだけに韓国の人々にとって民主化は大きな意味があり教会がそのために大きく貢献したことは教会にとっての誇りです。ところが最近独裁時代に逆戻りさせたい人々が社会の実権を持つようになりました。北朝鮮や中国も独裁政権が恒常化していますし日本も経済成長と安全保障ばかりに関心が行きがちで民主主義という言葉の重みが失われている気がします。アジア全域で民主主義の真価が問われています。

 

20、「分かち合いの家」はベンチャービジネス、ソーシャルベンチャーともいえるが基本精神が利益優先ではないのでまさに教会だ、制度と実践に関するバランス感覚がすごいと思う →現場主義ということですよね、目の前の現実に関わるためにそれにふさわしい形や制度を作り出す柔軟さと、イエスの実践に倣って生きる自分たちの働きを教会の働きだと確信するキリスト教に対する信頼感の深さが重要なのだと思います。

 

21、キリスト教の社会的責任といっても具体例が浮かばなかったが「分かち合いの家」を見てなるほどこういうことかと思った →思い込みやとらわれから自由になることで可能性はいくらでも広がります。しかし「分かち合いの家」も韓国における教会の活動の伝統、ヨーロッパのキリスト教の様々な実践、南米の神学などを学んだ結果生まれた姿であり、表面的には新しいように見えても実は教会の伝統に立脚している活動といってもいいのだと思います。

 

22、現場や活動が重要であるように見えても実は最も重要なのは「信仰」だ →彼らの現場における活動の原動力は何かということですよね、それが聖書であり教会であり信仰であることは確かです。この場合の「信仰」が建物や制度に規定されたものや私的な何かではなく人間の顔をした信仰であること、人々の暮らしに根ざした信仰である点が重要なのだと思います。

 

23、今まで繰り返し聞かされてきた「隣人を愛する」ことが具体的にどうすることなのかイメージが浮かばなかった、「愛する」ことを目的にするのではなく自分が共感する人に向き合うことが第一歩だ →同感です。隣人愛というようなお題目、ルールが先行するのではイエスが批判した「律法主義」になってしまいます。具体的な状況を抜きにして抽象的に愛とか正義を語るのはかえってマイナスではないかとさえ思います。この状況で愛とは正義とはと考えそれを実行しながら問い続けていきたいものです。

 

24、小学校から14年間キリスト教を学んできたので新しい知識が増えるという期待はなかったが、視点を変える、観点を変えるということで新しい発見がたくさんあることを学んだ →知識においてもこれからまだまだ学ぶべきことはあるはずですが、問題は知識ではなく解釈でありそれを自分の実体験とどう結びつけるかということですよね。立場を変えればストーリーは変わってくるものです。ザビエルの視点ではなく当時の日本の武士あるいは仏教徒、農民の側からキリスト教はどう見えたのかという視点の転換ができればまだまだ面白いことはたくさん出てくるはずです。聖書だって、読み方によってメッセージは全然違ってきますから。

 

25、信仰は目に見えないものだと思っていたが目に見える信仰というものを知った →「あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」(新約聖書「ヤコブの手紙」2章16〜18節)

 

26、同じ場所で暮らすことで問題の真相が見えてくるというのはコルカタのテレサの例にもあることだ、きれいなチャペルで礼拝しながらみすぼらしい人が来ると奇異な目で見ていた、「わかちあいの家」のような敷居の低い教会に憧れる →「地域に開かれた」とは本来こういうことですよね、韓国とは社会の成り立ちや人々の考え方も違うので同じことができるとは思いませんが地域活動は日本でもありますし教会やクリスチャンが関わることが多い気がします。「どなたでもどうぞ!」という場合、想定する対象者は極めて限定されているのが現実であり、まずは教会の言葉の矛盾に気づくことから始める必要があると思います。

 

27、本当に教会を必要としてる人のために教会はあるべきだ、お高くとまった教会というイメージもあるが「ノートルダムの鐘」のようにジプシーをかくまう教会の姿も知っている、礼拝で心が安らぐとしても一時的なものでしかない、毎回ハッとする授業だった →挑戦の歴史を学びながら教会が民衆と共に歩んできたこと、社会全体に教会の肯定的イメージがあることを学びましたが、日本でもキリスト教は貧しい人を助けるとか人のために何かをするというイメージは定着しているはず、それと現実の教会とのギャップが問題ですよね。

 

28、儀式、形式、学問が宗教の本質ではないはず、宗教を敬遠する人々は本質を見失った宗教を毛嫌いしているのであってイエスの教えを伝えるのではなく愛を実践するようなキリスト教なら敬遠する人はいないはず →同感です。入信を迫る、献金を要求する、プログラムへの参加を強要する、献金が多く参加度が高いこと、「宗教に熱心」であることを信仰に指標とするような団体に入りたいと思う人はいないですよね。

 

29、韓国が好きで行ったこともあるが「教会が多いな」という程度であってキリスト教とのつながりは意識しなかった、次に行った時は授業を思い出して色々な場所を訪ねたい →是非そうしてみてください!

 

30、韓国ドラマを見ていると教会の人が貧しい人に食事を配るようなシーンがある、日本のドラマではありえない光景だ →クリスチャンが20%以上いる社会ですからテレビでも映画でもそういうシーンは出てくるし、登場人物として神父が出てきたり教会が舞台だったりということが起こります。


2016年度春、アジアのキリスト教1、02

6、前回の授業について。授業をサボった仲間にノートを貸すのが嫌なのは自分が費やした時間が無駄になる、サボることの是非は別として「誰かのために時間を割きたくない」ということだ →誰かの支援をする、手助けをするというときに一番出しにくいものが自分の時間だという話に対する応答ですね。90分授業を受けて作ったノートは他者が見ても時間を得する?結果にはなりません。その時間を費やしたことは代替不可能な何かです。それだけに時間は貴重だということでもあるし、誰かのために時間をかけることは意味があるわけですよね。

 

7、新自由主義が格差を生む、自由な競争原理のマイナス面が貧困なら社会がそれを補う必要があるだろう、「分かち合いの家」は社会が必要とする働きだ →貧しい人がいなくなる社会を想定することは容易ではないとすれば社会全体が責任を負うことは必要だし公的な福祉制度はそのためにあるのだと思いますが、教会など市民社会がそこに積極的に加わることも重要だと思います。韓国の場合、制度的福祉の遅れを教会が補ってきた面がありますが、制度では対応しきれない部分を市民が補うことも大切だと思います。

 

8、互いに助け合える共同体を目指した結果が教会であった、「メガチャーチ」としてもその精神を活かせないのか →いわゆる「メガチャーチ」も国内外の貧しい人の支援のために巨額を投じていますが、活動の視点というか質が異なるような気がします。「分かち合いの家」は住民が中心、自分たちで自立することが目標ですが、それ以外の教会の場合なかなかそういう精神になりきれない場合があるし、場合によっては自己宣伝の道具のような活動になってしまうこともあるようです。現場にまで行けない人々の代わりに自分たちが活動する、いけない人々は活動する人々を支えるという関係性はいいですよね。

 

9、クリスチャン以外の人間にとって教会は礼拝をするところだが、礼拝共同体としての教会が本来の姿ではないとすれば多くの人々は教会の本当の姿を知らずにいることになる →たとえそれが「誤解」であっても教会といえば信徒が集まって礼拝するところ、信徒とは日曜日に教会に集まって礼拝する人々と思われているのが現実でしょうし実態もそうなっているかもしれません。キリスト教が敬遠されているといっても誤解した上で敬遠しているのはあまりも残念です。

 

10、そもそも礼拝は行きたいときに行くものだと思いながらも自分が奏楽するから礼拝に来てと誘ってきた自分がいる、奏楽の奉仕で満足しているのはどうかとも思う →きっかけはなんでもいいし、人は常に100%でなくてもいいと思いますから、知り合いがオルガンを弾くと聞いて行ってみたとか、借りてた本を返そうと思って礼拝に行ってみたということでもいいと思います。「奉仕」という言葉もやっかいですよね。他者からは奉仕と思われても自分は自分の満足のためにしているということもある。大切なことは「奏楽奉仕」しているから自分の「奉仕ポイント」はクリアーしてるのような発想に陥らないということでしょう。だから<10>さんは大丈夫です。

 

11、キリスト教の宣伝をしない「分かち合いの家」だが貧しい人々を助ける活動によって社会的イメージが高いし結果的にキリスト教の宣伝効果も生じている →一部の過激な信徒がするような路傍伝道とか戸別訪問のような活動は、宣伝効果としてはマイナスですから行う目的はただ自己満足のためだけです。本当にキリスト教のいい面を知ってもらおうと思えばあんなことをするはずがないし、かえって教会の名を伏せて他人の役に立つような活動をすべきだと思ってしまいます。「分かち合いの家」はそれを狙っているわけではありませんが、結果的には韓国社会において聖公会やキリスト教全体のイメージアップに貢献しているのは事実だと思います。

 

12、立教チャペルが好きで礼拝にも参加しているが批判的にも見ることができるのだなと思った →わたしも立教チャペル好きですし今でも聖歌隊のファンでもありますが、あれがキリスト教である、礼拝であると捉えることには賛成できないのです。ですからすべての教会がそれぞれ自分にできないことをしている人々、教会に敬意を払う関係になれればと思います。

 

13、「分かち合いの家」は教会っぽくないだけでなく宗教の枠を超えてその本質を具現化している →教会の形を取り払うことで教会本来の魅力を発揮している、そんな感じでしょうか。こんな自由さが大切だということは他のものにも当てはまりそうですね。

 

14、普通のひとが教会に求めているのは権威や格式ではなくひとを助ける場であるということだろう →たいていの教会は敷居が高いですよね、そして偉そうでお高くとまっているという気がします、特に聖公会は。でもそれは人々がかろうじて好感を持って受け入れているキリスト教のイメージとは違うしイエスが考えていた新しい生き方とも違っている。人間はどうしても保身に走りますから教会も無意識的にであれ自分たちを守る気持ちが先行してしまうのでしょう。

 

15、聖書を読む限りキリスト教にとって大切なのは教会ではなくイエスの教えだ →その大切なイエスの教えを受け継ぐために教会があるはずなのですが、いつの間にか道具である教会の方が目的のようになってしまいました。教会を守るためにはイエスの教えを割り引いてもいい、という本末転倒な考えが生じて二千年たっています。

 

16、メガチャーチのようなスタイルの教会が登場しても実際に人々の救いにはつながらないという経験があってのことだろう、日本の社長レベルのクリスチャンで「分かち合いの家」を「本物の教会」と言えるひとがいるだろうか →もちろんいるとは思いますが、そういうひとが教会の中でリーダーシップを取れるようになっているかというと、そかはわかりませんね。


2016年度春、アジアのキリスト教1、01

最後の授業からそろそろ一月、リアペに何を書いたかすっかり忘れた頃かと思いますが、予告通りここに少しずつ応答を書くことにします。

 

1、教会の存続のために教会に行っているのではない、礼拝共同体ではなく生活共同体という「分かち合いの家」の姿に本当の宣教を感じる →教会は大事だと言いますがあるだけで大事だという言い方には疑問がありますよね、それを否定する必要はないとしてもいろいろな姿の教会があることは大切だと思うし固定観念にとらわれずにイメージを膨らませるための勉強、知識の吸収といろいろな体験は大切だと思います。

 

2、韓国で日本語を学ぶ場合実生活にどのように役に立つのか →韓国企業の多くの取引先は日本企業ですから日本語能力はけっこう実用的だと思います。最近は中国人が多くなったとはいえ観光客も日本から来る人が多いですからね。

 

3、「また来てね」という言葉を喜んでいた自分にとって「分かち合いの家」の人々の感性はすごいと思う、自分の生活を考えずに新たな事業を始めたことにも驚くがそれを支えた仲間がいたことにも感動する、きれいな理想だけでは人を助けることはできない、大聖堂と「分かち合いの家」が対立しない関係であることは素敵だが本当にそうなれるのかは疑問 →大聖堂の人々は自分たちのスタイルに誇りを持ちつつも「分かち合いの家」の活動を尊敬しているし同じ聖公会として誇りに感じている、「分かち合いの家」の人々も自分たちの活動を理解して支えてくれる仲間と思っている、何より互いに顔の見える関係があることが重要だと思います、大聖堂の人がボランティアで出入りしたり「分かち合いの家」の人が大聖堂で行われる研修会の講師になったりしていますし。

 

4、食卓を囲むことが大事だといって聖餐式をするのではなく実際にみんなで手作りランチを食べるのが素敵、民衆神学の精神を感じる →形を継承するのではなく精神、その意味を継承して再現することに重きをおくということです。キリスト教が大事にしてきたことはなんだろうと考えたときに信徒を増やすことが優先課題になるとは限りません。イエスの名を伝えるのではなくイエスの教えを実践する、というのも同じことです。

 

5、韓国の教育熱もすごいが東南アジアでも英語や日本語教育が盛んになっている、日本語しかできないほとんどの日本人が国際競争に負けるのは当然だ →経済的競争もそうですが市民的な交流においても自分の文化を超える能力はとても大切だと思います。確かに日本にはなんでもあるし安全で住み心地がいいような気もしますが、そうした「誤解」が自分の世界を狭くしてしまわないようにしたいものです。


2016年度春、キリスト教と映画03

14、自分自身を受け入れ、同時に他者を認めることが隣人愛、「自分らしさを大事にする」ことの大切さが今回観た映画の共通点 →隣人愛という考えは道徳的な行動、善行をつみましょうということではなく共同体としての行き方の問題だと思います。共同体というと個人が消えてしまいそうですが自分らしく自由に生きる行き方の中に隣人と共に生きるという要素が必ず必要なはずだと思うのです。自分らしさとは孤絶、孤高の姿ではなく自由な主体同士が互いに活かし合う中で開かれてくるものではないか、最後の作品はそんなイメージを与えてくれました。

 

15、すでにレポートを書いたが最後の授業を聞いて書き直したくなった、「正義」と呼ばれるものが自分に都合のいい正義となり、人が求める神は自分を必ず肯定してくれる神なのかもしれない →正義とか神という概念ですら人間の利己性の前に歪曲されているのではないかという批判的論点を検討しました。小学生が先生に告げ口する時の気持ち、先生は必ず自分に有利な裁定をしてくれるはずだという素朴な信頼のことです。「水戸黄門」のような聖王伝説もこれと同類です。しかしこの論点は、正義や神のような普遍的なものを否定するために提出したのではありません。宗教的にいえば、自分が神と呼んでいるものは自分の願望の投影ではないのかと常に立ち止まること、自己批判的信仰が重要だということです。旧約聖書の人々は偶像崇拝を厳しく禁じましたがそれは他宗教に対する不寛容としてではなく自分の信仰、自分の信念に対する絶えざる批判、再検討の促しであると捉えたいのです。無批判な正義、やみくもな信仰が偶像崇拝でありそれは「キラ」として自己神格化した夜神月の姿でした。

 

16、人の数だけ正義がある、だから正義の定義付けは難しい →論理を構築するために概念の定義は必要かもしれませんが、正義のようなものについては立ち止まらないこと、問い続けることが不可欠であり、「正義とは〜である」という定義自体が正義の概念に反していると思うのです。水は流れ続けていないとよどみ腐敗します。清流の条件は流れ続けていることです。だから正しいものなどどこにもないという思考停止的結論ではなく、この正しさが全てではないという絶えざる運動に身を投じるというのはどうでしょう。正しいか正しくないかという二元論が私が批判し続けた「思考停止の二元論」です。

 

17、「桃太郎」、誰の立場から解釈するかというテーマは、「誰がこの人の隣人いなったと思うか」という「善いサマリア人」の問いかけと同じ、別のクラスで「では誰が追い剥ぎの隣人になるのか」という問いが提出された →「誰が隣人か」という断定的思考は正解を必要とする人の不自由な思考方法であり、「誰が隣人になるか」という動的で参与的な思考は常に問い続ける思考方法であり新たな可能性に開かれたスタイルだと思います。「追い剥ぎ」にはわたしも注目しています。追い剥ぎの被害者を助けるだけでは社会の悪、構造悪は放置されたままですから、人が追い剥ぎにならなくてもいい社会を作る責任がある、それは政治の責任であり、聖書的にいえば祭司やレビ人の責任ではないでしょうか。神愛教会の「ひぐらし通信」にそんなことを書いたばかりです。

 

18、一度観た映画を見直すことはしないがこの授業では視点を変えて観ることで内容が違ってくる面白さを知った →好きになれないキャラクターに共感できるようになることもあるし、見過ごしたシーンが急に重要なものに思えることもある。映画も文学も学術的論文も全てそうですし、人間も会うたびに違った側面が見えてくる、自分が変わることで相手の印象も変わってくる、全ては相互作用だというところが面白いと思います。

 

19、厳格な宗教、神は絶対、他宗教は認めない、これがキリスト教だと思い込んでいたがこの授業でかなり印象が変わった →聖書には厳格で排他的な舞に関する表現がたくさんありますしそのことを強調する教会、牧師や神父もいます。しかし、だからと言って「神とはそういうもの、キリスト教はそういう宗教」と断定するのではなく、神をそのように解釈した人々の伝承が聖書に含まれている、その点を強調する教会があるということだと思うのです。一般的にそのような解釈が広がっているとするならばわたしはあえて寛容であること、自由であることの大切さを訴え続けたいと思います。イエス自身、ある人には厳しくある人には寛容でした。ほんとうは神の寛容さ、優しさに気づくべき人が逆に厳しさにとらわれて追い詰められていることがあります。寛容さを伝えるべき相手に厳しさを強調する間違った教会の姿をよく目にします。印象は移ろいやすいものですが固定観念を振り払って自分の目で大切なものを見出すようにしていただければと思います。

 

20、他者を認め自分の弱さをも受け入れること、現実にできるかどうかではなくそのことの大切さを忘れないでいることが重要だ →自分が正しいかどうかより、正しい方向がどこかを知っていることの方が重要だと思います。隣人愛など偽善だ、無理だということは簡単ですが、未熟な自分を固定化して変化の余地を自ら排除する必要はないはずです。

 

21、この授業では新しい考えに接するのがいつも楽しみだったが朝がつらくて寝てしまうこともあった →体調もありますからね、聖書には死を覚悟したイエスが逮捕直前に徹夜で祈るという場面がありますが、そんな緊張の最中に弟子たちはぐーぐー寝てしまいます。それを見たイエスは「心は熱しているが肉体は弱い」といって理解を示すです。この台詞、かなり好きです。

 

22、これから映画を観るときに語りかけてくるメッセージをより深く受け止められる気がする →映画は何も考えずに観る、好きな作品であればあえて誰とも意見を交わさないというコメントもありましたよね。それも一つの鑑賞方法ですが、あれこれ考えたり、みんなで分析したり評論しあったりするのも楽しいはず。好きな作品をけなされるのはイヤですから単なる悪口をいうような人ではなくポジティブに語り合える映画好き仲間がいるといいですね。

 

23、幼い頃からキリスト教に親しみかなり理解しているつもりだったし疑問も抱いてきたが、信仰も神も必要のない世界を目指すのがキリスト教という言葉を聞いてスッキリした気がする →浮き輪にしがみついている限り泳ぎは上達しませんよね。泳げるようになることが大事なのに浮き輪が自己主張するようなことがあってはなりません。しかし上手に泳げる人が浮き輪を捨ててしまうとも限りません。キリスト教に限らず宗教それ自体は目的ではなく道具のようなものであって目的に取って代わることはできないはずです。

 

24、自分がキリスト教学科に所属している意味を考え続けているが、キリスト教が究極的に求めているのは人間が主体的に生きることだという言葉を聞いてこれからの手掛かりとしたい →いろいろな手掛かりを通して自分なりの意味を見いだすことができるはずです。

 

25、人間イエスには限界も欠点もあるからイエスが正義だと断言すべきではないしキリスト教が絶対ともいえないが、世界に対する影響力の大きさを考えるとキリスト教についてしっかりと考えておく必要があるはずだ。秋学期もキリスト教に関する授業をとるつもりだ →イエスが魅力的なのは完璧で欠点がないからではない、誰もが満足する正義を主張したわけでもないのに彼の行き方に多くの人が不思議な魅力を感じる、今の自分には不利と思える主張があるにもかかわらず聖書を読み続ける、やはりそこには何かがあるし一人ひとりが自分にとっての魅力をそこから感じ取ることが大切なのではないでしょうか。気に入るかどうかは別として、キリスト教という考えについてしっかり考えてみるというのはキリスト教学科を選んだ学生の特権だし強みになると思います。

 

26、平和の象徴と言われる鳩が色分けされているという話は実に象徴的 →人工的なストーリーはどこかに無理があるし、無理してきれいな物語を作らなくてもそこに真実があれば必ず伝わるはずだと思うのです。負の歴史を「自虐史観」と呼んで隠蔽する態度には、この国の人々、特に若者を信頼しない傲慢さを感じます。戦没者に感謝すべきだというような結論を押し付けるのではなく、真実を学ぶ中で湧き上がってくる一人ひとりの思いが大切なのであり、人工的な美談や感動からは困難な状況を生き抜く力が湧き上がることはないと思うのです。

 

27、理不尽さを取り除く必要があるのか、それが人間らしさでありそれがあるから宗教が発達したのではないか →大きくみればそうとも言えますが、個々の問題を考える必要もありますよね。差別も暴力もない世界のためにギヴァーのようなコミュニティを作ろという気にはならなくても、差別も暴力も人間ならではの理不尽さなのだからといって放置することには大反対です。

 

28、何が正義か決められない世の中では多数決しかないのか →多数決は対立する意見を調停するための一つの方法ですが、勝者を「正義」と呼ぶことは間違いですよね?正しいから勝ったのではなく多数意見だというだけであり、多数意見が正しいとはいえないことは歴史を学べばすぐに分かることですし。


2016年08月07日、C年特定14主日、東京聖テモテ教会

小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカによる福音書12章32〜40節)
2016年8月7日、C年特定14主日、東京聖テモテ教会

香山洋人

 

 「小さな群れよ恐れるな」、この言葉に励まされた人は多いことだろう。会衆席にたった2名で礼拝を捧げてきた経験を持つ教会の方がこの言葉に励まされたと言っていた。テモテも小さな教会であるとはいえ、苦境に立たされ希望が見出せないような時にこの言葉の持つ意味はますます大きくなることだろう。

 

 立教大学は東北の障がい者施設で学生のプログラムを行ってきたが、その施設は「小さき群れの里」という。ルカ福音書の一節から命名されたという。知的障がい者と呼ばれる人々が共同生活をしながら様々な仕事をしている。グループホームで暮らす人、自宅からの通所で活動に関わる人々もいる。このような社会福祉事業は必ずしも明らかな見通しを立てた上で始められるのではなく、助けが必要な人がいるなら手を携えて一緒にやっていこうという決心で始められるのだと思う。はっきりした見通し、資金、人材確保など事業を行う上で必要な事柄は多々あるのだろうがそれだけを考えていては始められないこともあるだろう。

 

 「小さき群れの里」は素晴らしいところだった。周りの自然環境もそうだがそこで生きる人々がとても素敵だった。人々は農業や酪農のほか、羊毛を使った製品のデザイン制作など様々な仕事をしながら日々を送っているが、それが障がい者だからというのではなく、日々の暮らしをコツコツと送る人々の姿はそれだけで美しいし感動的なものだ。われわれも日々コツコツと生きているはずだが、いろいろな人の助けを受けながら、互いに助け合いながら日々を生きるということ。生きているということそれ自体の美しさ、すばらしさに青年たちが学ぶ場に立ち会えたことは貴重なことだった。そして、人と人とが出会うことによって新しい何かが生まれていく場がそこにはあった。日頃われわれは当たり前のように見過ごしているのかもしれないが、人が生きているということはそれだけで素晴らしく感動的なことだ。もちろん障がい者であれだれであれ、われわれ自身も実はそうなのだが、いいことも悪いことも体験しながら、失敗したり落胆したりしながらも、多くの人に支えられながら一歩一歩を踏み出しながら一生懸命に生きるすがたの素晴らしさは平等であるはずだ。

 

 「生きている価値がない、死んだほうがいい」などという命はどこにも存在しない。むしろ誰かの命をそのように断じてしまうこと自体が魂の死にほかならない。殺戮、戦争、暴力は加害者の自己破壊であり死でもある。ニュースで知るような恐ろしい事件は例外的なこと偶発的なことと言えるだろうか。犯人個人の問題でしかないのだろうか。この社会の価値観や最近の風潮、攻撃的で暴力的、冷淡で無関心な空気の形成が誰かの命を傷つけると同時に自分自身をも損なっているのではないかと感じてしまう。自分自身の弱さと恐ろしさに向き合おうということがキリスト教信仰にとって重要な要素に違いない。それは命の素晴らしさに対する圧倒的な信頼が基盤となっているはずだ。

 

 旧約聖書ではアブラムが神と交わした会話、契約が示されている。ヘブライ人への手紙ではこのことが繰り返され、他にも同様に神への信頼によって一歩踏み出した先達たちが列挙される。「信仰によって」と繰り返されるこの箇所も、これまで多くの人を励ましてきたことだろう。この箇所を繰り返し読んだ人も多いことだろう。古代社会のことなのでアブラハムとサラにとっての希望は子孫の繁栄として理解されているが、われわれにとってそれは、だれが考えても不可能な状況においてさらに一歩を踏み出そうとする希望を意味しているだろう。アブラハムやサラもそうして一歩を踏み出して約束の地へと向かっていった。もちろんその歩みは彼ら一代で終わったのではなく、ヘブライ人への手紙にあるように様々な人々、先達たちが同じような希望を携えて小さな一歩を踏みしめることで継承されていったのであり、今日、それと同じ歩みをわれわれもこうして踏み出そうとしているのではなかろうか。

 

 イエスは厳しいことを言う。人は自分の持ち物によって何かができるのではない、全てを放棄して神の義と神の国だけをひたすら求めよと言う。文字通りそれを実践できる人は少ないだろう。フランチェスコのような聖人が人気を集め続けるのは、われわれがやるべきことをフランチェスコに肩代わりしてもらっているということなのかもしれないが、手放すべきは物質的なものだけではない。「あなたの富のあるところにあなたの心もある」という言葉は、自分が大切だと思っているものに依存し、縛られ不自由になる人間の問題を指摘している。問題は執着だ。

 

 卓球の福原愛選手は「勝ちたいという執着」の問題について語っていた。仏教の托鉢は物質のやり取りに伴う執着から解き放たれるための修行だと言われている。物をあげる、物をもらうことに伴ってわれわれの心も動いてしまうのが常だろうが、そうであってはならないということだ。教会への献金も自己満足や名誉心をくすぐることがある。受け取る側も金額の大小によって一喜一憂してしまう。もちろん献金本来の意味がそうではないことは誰もが知っているはずだ。「富のあるところに心がある」という言葉はわれわれ人間のこうした執着心を問題にしている。

 

 これだけ努力をした結果の財産だ、自分が一番貢献しているのだから評価されてしかるべきだ、一番苦労しているのは自分なのに誰も理解してくれない。努力も貢献もそのための苦労も、実は誰もが日々積み重ねている一歩一歩の歩みであり喜びを生み出すものであるはずなのに、利己的な執着心によってそれらがこだわりとなり、本来自由であるはずのわれわれの心を捉えてしてしまう。喜びと感謝の歩みであるはずが不満と憤りの日々となる。

 

 日々を一生懸命生きているということ。うまくいくことも失敗することもあるけれども、それでもなんとか助け合いながら日々を生きている。そうした一歩一歩の積み重ねの渦中に思いがけなくイエスが到来する。そのような積み重ねがわれわれの何気ない日常を神の国へと転換する。今日の福音はそのことを語りかけているのではないだろうか。そのことに信頼を寄せて日々を歩むことが、アブラハムやサラ、そのあとに次ぐ先達たちの歩みに連なるわれわれの今日の一歩になるはずだ。


2016年度春、キリスト教と映画02

7、常識や価値感が対立する時、相手に共感できないような時、自分の信念を譲ってしまえば相手にコントロールされてしまうこととなる →対立する意見を調整する場合、AかBかではなくそこから新しいCが生まれることもありますよね。信念を貫くことが今の意見を一切変えないこととは限らない。目的と手段に分けて考えれば、目的に達するための手段であれば多様な選択肢があるかもしれない。自分の意見を完成されたもの、不動のものとしてしまうことは相手にとっても自分にとっても不自由になってしまいそうです。

 

8、「靖国の鳩」のように人為的な美しさは、白が美しいという固定的価値観の不自然さと他の色を排除する不自然さ、二重の問題を抱えている →「これが理想」という世界で現実を加工することはいろいろな場面であることです。歌が下手な人は本番では口パクにさせられるという話もありましたが、人為的な加工をしなくてもありのままの美しさを感じることができる人もいるはずです。これでは評価されないに違いない、美しいと思われないはずという勝手なこだわり、とらわれがいかにも不自由ですよね。

 

9、いつもなら一本ずつ別々に見るのが映画だがこうして4本を一つのテーマに沿って観て、分析し議論する経験は初めてで新鮮だった →映画鑑賞としてはこういうことはしないと思いますが、「映画祭」などではテーマごとに作品を上映したりしますよね。この授業にとって映画は一つの素材でしたから意図的に並べてみたのですが、皆さんがそれぞれに受け止めていただいたので企画の意図を超えた発展が生まれてこちらとしてもとても新鮮でした。

 

10、映画を通しての学びだったが、音楽は一人では生み出せないもので皆を自分に合わせるのではなく互いが歩み寄ることで美しさが生まれるという音楽についての学びができたことも良かった →そうですね、最後の作品はハーモニーがキーワードでしたがこれは一人一人が自分を出すこととそれを互いがしっかり聴いて受け止めること、共振することで楽譜にはない世界が生まれていくという素敵な世界でした。

 

11、「女の子らしく」はSNSなどのセルフィーを通してさらに増幅されている、自分らしさではなく「女の子らしさ」を主張する自分大好きな人たちがいる →知らないうちに誰かの期待に応えているということでしょうね。自分はこう見られたいという自己イメージがあってそれにあわせて自己を演出する、でもそれを「見ている」のはだれで「いいね!」といっているのはだれか、だれにどう思われたいのかという強い動機づけが背後にあることを忘れてはなりませんよね。それじゃダメだ、ということではなく、自分はいまあの人(たち)向けの自分を演出している、という冷静な意識を持ち続けるということでしょうか。

 

12、外国の友人に「日本にはどんな人種がいるの」と聞かれたのが衝撃的、ディズニーの「ZOOTOPIA」も人種に関する意識が明確な作品、日本にはそう意識が低い →日本のCMで気の利いたのがあれば紹介したかったのですが結局見つけられませんでした。いろんな人種がいて、ぶつかり合う中で形成されてきたセンスなんでしょうか。本当は日本の中にも同じような葛藤の歴史があるのに、それをプラスに活かせないのがおかしいですよね〜。

 

13、いままで宗教をいいイメージでとらえられなかったがこの授業で映画を通して宗教の存在価値を捉え直すことができた →ありがとうございます。宗教の素晴らしさ、信仰の素晴らしさを宣伝する授業ならどこかにあると思いますが、わたしはそういうことをする気がありませんので、宗教が課題としてきたことがらが映画の世界でどのように表現されているかを一つの手がかりにしてみたかったのです。やっぱり映画は総合芸術ですよね、感じることが多いし考えさせられることが多い、見るもの一人一人が違うテーマを見つけることができるのもいいところです。


2016年度春、キリスト教と映画01

 すっかり時間が経ってしまいましたが、立教の春学期最後の授業のリアペへの応答を少しずつ書いていきます。まずは「キリスト教と映画」から。

 

1、フェミニズムは自分らしさの表現として当たり前の主張だが、「自由な女性」として描かれる姿に西洋的女性イメージがあるようで気になる →よくわかります。「自分らしさ」はまさにその人に備わったものであると同時にその人が属する文化、社会的立場などによって規定されたものである。だからウィスパーのCMは(おそらく)北米の状況を描いているのであってそれを理想とする必要はないし、発言の多い声の大きい人々を理想のように捉える必要はない。これが本当の自分かという問いを持ち続けることは面倒なことでもあるし楽しいことでもあるはずです。

 

2、理想郷とは「デスノート」「ギヴァー」など異次元のものではなく他者を認めつつ自分の個性を発揮する、その上で構築される平和な世界ということだろう →未来を描いた「ギヴァー」に始まり最後はテレビCMでした。あえて意図した順番ではないのですが社会的な次元から人間関係、そして自分の生き方という流れにはなっていましたね。「こうすればいい!」という大きな力による変革ではなく各自が主体的に作り上げる世界がいいなと思います。

 

3、第一回の「ぼくのお父さんは桃太郎というやつに殺されました」が衝撃的だった、自分の見方を相対化する、転換することの重要性を学んだ →「中立」という虚構を知ることで新たに見えてくるものは多いと思います。映画のような作品は製作者が意図する「見方」がありますのでそれを無視することはできませんが、それでも多様な解釈はできるはず。何より第一回で強調したかったのは自分の中の固定的価値観のせいで作品を自由に受け止められないようでは困る、ということであり、どんな表現にも解釈にも「わたしはこう思う」という限定があることを確認しておきたかったのです。

 

4、「神にも教会にも依存しない人間」という理想は内心のものであると同時にそれを政治的に実現しようとする力もあるはず、「神の国」は宗教的なものでもありそれを政治的に追求しようとすることも可能、宗教と無縁の人もどこかで「神の国」的な何かを求めているのではないか →組織や社会として素晴らしくなるのは当面の目標ですが、その中で個の主体性が失われるようであればむしろ不安定なほうがいいと思ってしまうのです。「メシア的政治」という言葉がありますが、権力者が自分を神のような超越的力と考えて人々を支配する独裁のことです。夜神月はそんな力に憧れてしまいましたしギヴァーのコミュニティは人工的な理想郷を実現したはずでしたが、どちらも人間の自由、主体的生き方を認められない点で単なる暴力装置となったのだと思います。

 

5、法体系や政治機構によって死や暴力を隠蔽する虚構、自分に都合のいい世界を正義と呼ぶ人間、「正しさ」というものがわからなくなる →だから、「こうすれば大丈夫」という決め手のない世界を生きる力を身につけたい、それは強靭な一人の力ということではなく、互いに心を開いて助け合い支え合うことで可能になるのではないかと提案したつもりなのですが、いかがですか?

 

6、人間の限界を知れば知るほど超越的な何かを必要とするのは自然な流れ、そこで自分を神にしてしまうかどうかが問題。この授業で観た映画はすべて出会ってよかったと思える作品だった →ありがとうございます。面倒な現実を誰かが一気に解決してくれないかという「聖王待望」のような受動的な生き方ではなく、結局は自分たちで少しずつやっていくしかないしそれは喜ばしいことで楽しいことでもある、他者とともに自分も自由になる生き方というものがあるはずだ、という感じです。来年またやるとすれば違う作品を選ぶつもりですが、お呼びがあるかどうかは未定です。

 


2016年7月31日、C年特定13主日、東京聖テモテ教会

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして(休め)、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカによる福音書12章13〜21節)
2016年7月31日、C年特定13主日、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 旧約日課、王コヘレトはすべてはむなしいと嘆いている。彼を苦しめているのは自分の財産を誰かに相続させることの虚しさだった(コヘレトの言葉2:18〜19)。自分が作った財産が後継者の手に渡る。息子が優秀とは限らない。自分の一生では使い切れないような財産を持つ王の悩み、富と権力を手に入れたものの悩みだ。われわれは王様にどう助言すべきだろう。このむなしさから解放されるために彼はどうすればいいのだろう。

 

 しかし貧しい人の悩みはそうではない。シングルマザーとして二人の子供を育てる女性の記事があった。駅から遠く離れた古い都営団地に住み、時給千円のバイトをしながら暮らす女性の収入は生活保護費を下回っている。貧しさのゆえに子供に塾や習い事に行かせることもできない。学校の成績が思わしくない子供は高卒で就職すると決めている。学歴もないまま働き始めようとしている子供たちが今と同じようなギリギリの生活を送ることになるのではないか、母親は「負のスパイラル」をどうすれば断ち切れるのかと日々悩んでいる。この女性がこの苦境に立たされた原因は特別なものとは思えない。誰にも起こりうるものだと言えるだろう。

 

 一方、コヘレト王は王位とともに財産を子供が相続するとしか考えることができない。そしてすべてはむなしいと嘆いている。これは決まりごとであり法的に正しいことだろうが、王はそれによって苦しんでいる。財産を子供にではなく社会に還元する、貧しい人々と分かち合うことにすれば王の悩みは一気に解消するだろう。そうすれば「キリストの平和」(コロサイ3:15)が王の心を支配することになるだろう。しかし王はそれに気がつけないでいる。むなしいのはこの世界ではない、生きることがむなしいのではない。今までの経験、常識、世のしきたりに縛られて生きる生き方であり、むなしいのは王の人生、隣人を見失い分かち合う仲間を持たない人生だということにコヘレトは気づいていない。彼を苛む「むなしさ」の本質はそれに気づいていないということだ。

 

 福音を見よう。豊作は神の恵みであり自力で得た収穫ではない。しかしそれを独り占めするために今の生活を拡大する金持ちの態度はまさに貪欲だ。この金持ちの貪欲さはコヘレト王と同じむなしさしか生み出さないだろう。豊作だからとあとは一生遊んで暮らしていこうと自分のことだけを考える愚かな金持ちの人生もむなしい人生だ。旧約聖書、創世記の「ヨセフ物語」を思い出してみたい。七年の豊作のあいだヨセフは収穫を浪費せず蔵に備蓄して続く七年の凶作に備えたという物語だ。凶作のあいだ、自分たちが生き延びるだけではなく周辺諸国の飢えた人々をも助けることができた。蔵を立てて備蓄することが愚かなのではない。それを自分だけで使おうとすること、財産は自分で使おう、使い切れなければ息子に相続させようということが愚かなのだ。

 

 景気が良くなったからといってすぐに投資する投資家、売り上げが伸びたからといってすぐに工場を新設して社員を雇い入れる経営者は賢いのだろうか。収穫をため込んで自分だけで使おうとする人間は賢いのだろうか。むなしく愚かな人生のたとえとして、イエスは貪欲さをあげている。この金持ちは豊作が与えられた恵みであることを知らない。隣人に想いを寄せることができない貧しさが問題だ。

 

 韓国の教会の中には巨大教会を目指す風潮が強いが、一定の人数になると株分けをする、適正規模を設定してそれを超えると次の教会を建てることもある。わたしが知るある教会は三つに枝分かれした。300人の教会になるよりも100人の教会が三つあったほうがいいという考えだ。われわれにしてみれば贅沢な話だが、自分たちの教会ということではなく、他者のための教会として生きることが正しい姿だと考える人々もいる。与えられた恵みであることを知る、自分たちのあるべき姿を知る、「足るを知る」ことは教会においても企業においても大切なことではないだろうか。

 

 七年間の豊作の収穫は自分たちを生かすだけでなく近隣諸国の人々を生かすものとなり、そのために建てられた蔵は感謝と愛の証となる。しかし豊作を自分だけのものと考え自分一人遊んで暮らそうとして建て替えた大きな蔵は貪欲と愚かさの証となった。自分一人豊かになってもそれは幸せではない、とイエスはいう。そもそもわれわれの命は自分の持ち物が生み出したのでも維持しているのでもない。命と持ち物、自分の真の幸福と富や権力との関係を正しく捉えられない人間は愚かだ、とイエスはいう。「神の前に豊かになる」とは、神が求める幸せで充実した人生を送るということだ。それは利己的な人生ではない。パウロはそれを、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけた生き方だと言い、互いに忍び合い、許し合う生き方だと言っている(コロサイ3:12〜13)。これらはすべて隣人との関係を基準とした徳目であり、共同体の倫理といってもいい。この世はむなしいという王コヘレトに新たな人生を提案したい、愚かな金持ちにこのことを伝える必要がある。殺伐としてむなしさに押し潰されそうな日々を送る人々に伝えるメッセージがここにある。教会はわたしの幸せではなくこの世界が本来の豊かさを分かち合うために奉仕したい。


2016年06月05日、C年特定5主日、東京聖テモテ教会

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。(ルカによる福音書7章11〜17節)
016年6月5日、C年特定5主日、東京聖テモテ教会
香山洋人

 ナインは新約聖書の中でここにしか登場しない町の名前。ガリラヤ地方の南西あたりにあるらしい。もう少しに南西に進むとサマリア地方がある。ルカはポリスと書いているが、実際にはそれほど立派な街ではないらしい。この町に特別な意味があるかどうか、推測するための歴史的資料はないという。

 この町の人々は、この女性とその息子に深く共感していたことがわかる。「やもめ」であればその子どもの葬儀には町の人が大勢付き添うものなのか、それともこれは異例なことなのかはわからない。しかし自分を守ってくれる後ろ盾のいないこの女性はなんとかして子どもを育てていたのだろうし、その苦労を知る人々は多かっただろう。息子に託していた希望の大きさを知る人々は彼女の悲しみに深く共感していたはずだ。「大勢」がルカの口癖だとしても、ナインには心優しい人々がいたようだという感想は特別のものではないと思う。

 第一朗読、エリヤとサレプタの女性の物語(列王記上17章)とは大いに違うのがこの点だ。サレプタの物語は、エリヤと女性の二人だけの物語であり、そこで生じたのは彼女とエリヤの信頼関係、深い絆であった。もちろん聖書の著者は、この物語を読者と共有するために書いているわけだから、すべての読者にとってエリヤは神の人であり、悲しみを受け止め、死の現実をも乗り越えさせてくれる偉大な神の力を体現した人物であることが了解されることにはなる。しかしルカはその範囲を、ナインの人やイエスの弟子たちではなく、イエスと行動をともにした群衆、さらにはユダヤとその周辺地方の人々にまで拡大しようとしている。

 サレプタの女性は、息子ともども世間から見捨てられ、間もなく餓死しようとしている自分のような存在を顧みてくれる神を知った。しかしルカの人々は「神はその民を心にかけてくださった」と告白している。つまりこれはナインの女性の個人的体験ではなく、解放を待ち望む「」の体験だったということだ。もちろん、イエスとナインの女性との間に強い絆が生じたのは確かだろう。しかしその絆は彼女だけのものではない、とルカは言いたいのだろう。

 イエスはこの女性に深く共感している。しかし、その理由は何かと問うのはやめておこう。他の葬儀であればこれほど共感しなかったとか、すべての死者を蘇らせたわけではないのになぜこの息子だけを蘇らせたのかとか、きっとこの母の深い信仰を評価してのことではないかとか、イエスが放っておけないような事情、例えば飛び抜けて悲惨な生涯を送っていたにちがいないとか、あるいはこの地帯一番が哀れな境遇に置かれていたからこそ特別にそうしたのだとか、イエスの行動を理解するために合理的理由をこじつける必要はない。ここにエリヤの物語との決定的な違いがある。

 サレプタの女性はあまりに貧しく悲惨な状況に追い込まれていた。そして神はエリヤをこの女性の元へと派遣した。エリヤは、王アハブに命を狙われ亡命中の自分を迎え入れてもらったことに恩義を感じているだろうし、もっといえば二人の間には愛情が芽生えていたのだと思う。そしてこの事件を通し、蘇生した子どもはエリヤにとってもはや「あなたの息子」ではなくなっただろう。エリヤは民を救う偉大な預言者である前に、愛する人とその独り子を守る者、夫であり父親であったにちがいない。エリヤが行った奇跡は新しい家族の深い絆を生じさせた。しかしイエスの奇跡はそれだけではなかった。

 とにかく、イエスはこの女性に深く共感し、葬列を止め、母親に「もう泣かなくともよい」、「泣かないで」(本田哲郎)と言い、死者の世界へと旅立ったはずの息子を呼び返した。なぜナインだったのか、なぜこの女性の息子だったのか。その理由はどうでもいい。イエスは治癒や奇跡を依頼されたからではなく、まったく無関係な町の見ず知らずの女性の悲しみ、見ず知らずの子どもの死に立ち止まった。だからそれは偶然に過ぎないし、あえて言えばイエスの主体的決断の結果だ。イエスは偶然ナインに差し掛かり、偶然葬列に出会い、ただ、この女性がひどく悲しんで泣いているのを見過ごしにすることができなかった。理由はおそらくそれだけだろう。

 もしこの時のイエスの気持ちに何か他の要素があったとすれば、彼女の悲しみを共有しようとする街の人々の存在だっただろう。イエスはその共感の輪に加わった。請われてのことではなく、イエス自らの意思によってだ。そして運ばれていく遺体に手を触れていう。「若者よ、起きなさい」。それは大げさな治療のようなことではなく、エリヤのような魔術的儀式でも、神に訴えかける切なる祈りのようなものでもなく、まるで寝ている子どもにそっと声をかけるような優しくあたりまえの行為だった。

 悲しみ、途方にくれるわれわれにイエスは言う、「もう泣かないで」。そしてイエスはすべての死者と、死の現実に圧倒されて倒れこんでいるわれわれに言う、「さあ起きあがりなさい」と。

「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」

「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。(ルカによる福音書7章7節)
(東京聖テモテ教会教報「葡萄園」2016年6月)
司祭アンデレ香山洋人

 

 聖書の時代、ユダヤの人々はローマ帝国の支配のもとで暮らしていた。街々にはローマ軍が駐留していたからトラブルもあったことだろう。けれども中にはユダヤの人々に敬意を払う善良な軍人もいた。この人物の名は知られていないが、「百人隊」と呼ばれる部隊の隊長だった。この百人隊長はユダヤ教の会堂建築にも協力していたようだが。

 

 ユダヤを支配するローマ総督の中には、悪意の人物が多かったという。ユダヤの人々がこの上なく神聖な場所と考える神殿の境内にローマ皇帝の石像を建立して拝ませようとしたこともその一例として知られている。怒りを爆発させた人々は反ローマ帝国の政治犯として十字架刑に処せられた。そして多くの人々は、屈辱に耐えながら反ローマ感情を募らせ亡国の身を呪い、神が救いの手を差し伸べてくれる日をひたすら待ち望んで祈るのであった。

 

 ルカ福音書7章に登場する善良な百人隊長はユダヤ人たちに敬意を払っていたようだ。彼が大切にしていた部下が死にかけたとき、ユダヤの長老たちはなんとかして助けようとイエスに頼み込んだ。これは珍しい光景だ。ユダヤの長老はイエスを批判し、排斥するはずではないのか。しかしこのとき長老たちは、われわれユダヤ人の味方であるこの百人隊長の願いを聞き入れて欲しいとイエスに頭を下げている。イエスがその頼みを聞き入れたのは、ローマの軍人か、ユダヤ人の味方か、長老たちの紹介かなどということではなく、そこに死にかけている人がいる、心を痛めている人がいるからだったにちがいない。イエスはそこにある悲しみと痛みを見過ごすことができないのだ。

 

 ルカ福音書は、この百人隊長をユダヤ教の伝統や習慣にも敬意を払う人物として描いている。ユダヤ人が異邦人との交際を嫌っており、それを「穢れ」と思っていることを知る百人隊長は、部下の治療を依頼するためにイエスに直接会おうとしなかった。異邦人との接触によってイエスを「穢れさせない」ようにと気を使ってのことだった。そんな百人隊長がイエスに依頼したのは、治療のために部下に手を触れるようなことではなく、ただ「治れ」と命じて欲しいということだった。これは不思議なことだ。治して欲しいのではなく治れと命じて欲しかった。それは彼が軍人だったからだろう。

 

 「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(7章8節)

 

 だから危篤の部下に対して命じて欲しい、「治れ、目を開け、立ち上がれ」と。百人隊長はイエスにそのように依頼した。たしかにこれは不思議な頼みだ。こんなとき多くの人は「神様どうか治してください」と祈るだろう。自分にはどうしようもない状況において、人の力を超えた何かによって癒されることを願う。だから百人隊長も、危篤に落ちいった大事な部下を、イエス様どうか治してくださいと願うべきではないだろうか。

 

 しかし百人隊長は治れと命じてくださいと願う。深い信頼関係に結ばれたこの部下が、上官である自分の命令に常に忠実な部下、長年生死を分かち合ってきた戦友であるこの部下が死の床にある。彼に対して百人隊長は「さあ目を開けろ、死ぬんじゃない」と言い続けたのだろう。それは命令であり祈りでもあるだろう。しかしもはや死は避けられないようだ。大切な部下は、ローマの権威も、軍人としての忠誠も友人としての信頼関係も及ばない世界に旅立とうとしている。百人隊長は人間の権威を超える何かをイエスに見出していたのだろう。そしてイエスに願い出た。あなたが命じてください、もう私の力の及ばないところに彼はいるのです、しかしあなたなら彼に命じることができるはずですと。

 

 百人隊長の信仰は、われわれが慣れ親しんだ信仰の姿ではないかもしれないし、それは当時のユダヤ人たちにも奇異に思えたかもしれない。けれども彼は、自分が信じそのように生きてきた方法で、彼が知りうる限りもっとも正しい方法で大切な部下の命を守ろうとした。彼は誰かに「助けてください」と願うのではなく、部下自身に「死ぬな」と命ずることを選んだ。そして地上でもっとも権威ある命令を下せる人物がイエスだと信じた。イエスはそれに答え「生きよ」と命じられたはずだ。

「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」(アモス書5章4節)

 

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