降臨節第三主日

 一年前の降臨節第三主日に「ローズサンデー?」という記事を書いた。読者の反響など気にせず書くブログなのに、ちゃんと読んでコメントをくださる方もいる。さて2016年の降臨節第三主日はどうするか。その答えは11月に入るとすぐに出さなければならなかった。当然のことだ。アドベントリースに使うろうそくを買いに行く都合があるからだ。ローズ色が一本入ったセットが売られている。これを買ってくれば従来と同じ「ローズサンデー」を継承することになるが、今年はそれをやめて全色白にした。いつも聖卓脇に置いている燭台のろうそくをそのまま使えばわざわざ買いに行かなくてもいい。合理的だ。

 

 「ローズサンデー」を巡る考えは幾人かの方には伝えてある。予想通りの答えだが、先生のご判断でということになった。とはいえ、なぜ今年は真っ白なのかと気にする人もいるだろうから、降臨節第三主日にはその話をしたほうがいいという助言も受けた。そうすることにしよう。

 

 同じ紫の季節でも降臨節と大祭節とでは趣旨が違うという「証拠」をひとつ見つけた。聖歌54番は「降臨節」に分類されているが、最終節に注記があって「大祭節には5節を省く」とある。5節の歌詞は次の通りだ。

 

 聖なるかな 民すべてよ

 神に感謝をささげよ

 喜ばしき たたえ歌を

 この祝いの よき日に

 

 この歌詞は大祭節には不向きだが降臨節には適している、と「日本聖公会聖歌集」は考えている。見落としでなければ、聖歌集の中でこの注記はここだけだ。日本聖公会にとって大祭節は慎みと克己の季節であり「喜ばしきたたえ歌、祝いのよき日」という言葉はふさわしくない。しかし降臨節であればそれは許容できるということだ。ある時代、どこかの地域では降臨節を慎みと克己の季節として過ごしていた敬虔な人々がいたのだろう。そこには修道者に限らず街で暮らす人々も含まれていたのかもしれない。この伝統は日本のローマ・カトリック教会にどのくらい浸透しているのだろうか。

 

 二主日分も頑張れば一息つきたいほどの厳格さがどのようなものかわからないが、現代の教会の場合、あらゆる機会をとらえて違いを出しておかないと商業主義に飲み込まれてしまうという危機感があるのはよく分かる。街のクリスマスとは違うんだぞという異議申し立て、教会のプライド、「俗世」と一線を画した「真のクリスマス」を示したいという切なるメッセージが柔らかなバラ色に込められている、そう思えばいいのだろう。そんな気持ちを理解しないわけではないが、来年は宗教改革500年だ。「すべての道はローマに通ず」になりがちな聖公会の現状への違和感は無視しないでおきたいと思う。

 

 


「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」

「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカによる福音書17章11節)

(東京聖テモテ教会教報「葡萄園」2016年10月)

司祭 アンデレ香山洋人

 

 「人をつまずかせてはならない」(17:1〜)、「謝る相手を許してやれ」(17:3〜)という教えに続いて、「あなたたちに信仰など無い」(17:5〜)、「仕えることは当たり前だ」(17:7〜)という教えが続く。これらはとても厳しい内容だがキリスト者の心構えと言っていいだろう。

 

 聖書がわざわざこのようなことを記しているということは、言わざるを得ない状況があったのだろう。人をつまずかせて平気でいる人、謝っても許さない人、自分の信仰を自慢し相手を批判する人、そして自分はこんなに奉仕をしているんだと誇らしげな人がいたということだろう。これは聖書の時代だけではなく人間の集まるところであれば必ず見かける風景でもある。

 

 これらは別々のことではなく互いに関係しているのかもしれない。いつもは謙遜さが大事だ、悔い改めが大切だと言っている指導者自身が実際には高慢で人を許さないとか、あるいは悪口を言いふらしたり自慢話ばかりしているとか。言行の不一致はたしかに人をつまずかせる。説得力のあるメッセージとは立派な言葉ではなく誠実で謙虚な姿のことなのだ。イエスはまさにそのようなリーダーだった。

 

 人は誰しもほめられたいし正当に評価されていないのではないかと不安になる。いい評判が広がることを期待する一方、悪い噂が流れているのではないかとおどおどしてしまう。誤解されたくない、ほめられたいという気持ちが不安の原因だ。もちろんこれは信仰においても言えることだが、いうまでもなく神はすべてをご存知だ。

 

 「からし種一粒」ほどの信仰があればどんな奇跡でさえも起こすことができる、願いはすべてかなうだろうというイエスの言葉の意味は単純だ。あなたたちに信仰など無い、教会の中でどんなに偉大な信仰者のように尊敬されている人の信仰であっても、神の目から見ればそれは「からし種一粒」にも満たないもの、つまり無いのと同じなのだ。だから信仰があるとか無いとか、深いとか浅いとか言って比較することの愚かさを知るべきだ。ましてや、それによって人を批判したり自分が高慢になるようなことがあってはならない。われわれがいかに未熟であるか、いかに無力であるか、いかに臆病で自己中心的であるか、神はすべてをご存知なのだ。

 

 「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 

 イエスがこう語ったのは、イエス自身が仕えるものとし生涯をまっとうしたからだろう。もちろんこの言葉は、仕えられる側の人間が仕える側の人間に語ってはならない言葉だ。自分が仕える人間だという自覚がある場合、そして自分の仕事が本当に立派かどうかを正直に考える冷静さがある場合、この言葉は生きてくる。どんなに立派な仕事をしても謙虚でいなさい、高ぶってはなりませんという意味ではない。本当に「取るに足りない僕」でしかないという自覚がなければ、これはかえって嫌味で高慢な言葉となる。われわれは文字通り「取るに足りない僕」であり、「しなければならないこと」をきちんとやり遂げるどころか、自分たちがなすべき務めが何であるかさえ分からずにいるのが現実だろう。命じられたことを果たすことができないわれわれは、謙遜だからではなく神の前に文字通り惨めな姿をさらしながら生きている。

 

 大言壮語はみっともないものだし、口先だけの感謝、心のこもらない謝罪は相手をいら立たせるだろう。正直で誠実であることこそが人間関係の基本だとしても、実はこれが一番難しいことなのかもしれない。虚勢をはらなくてもいいという安心感、人の評価など気にしなくてもいいという安心感はどうすれば得られるのだろう。「もし隣人がわたしより強ければ恐れ、弱ければ軽蔑し、同等であれば詭計に訴える。どんな動機、どんな理由でならわたしはその人に仕え、愛することができるだろうか」(ジャン・ド・ルージュモン)。隣人の前で自由になれること、それこそが解放であり救いといってもいい。それが容易でないことはわかっている。しかし聖書は語る。隣人を自由に愛することのできない人間でも、少なくとも神に対しては自由であれ、正直であれ。虚勢をはらず隠し事をせず、言い訳も弁解もせずに素直な自分であっていい。イエスは無力な弟子たちを招かれた、無力なわれわれを用いて神の愛を世界に伝えようとしておられる。「取るに足りない僕」として正直に生きること。これがわれわれキリスト者の召命ではないだろうか。


趙博さん講演会、無事終了

【関東三教区生野委員会、第52回日韓の歴史を学ぶ会】
「ヘイトスピーチ」って、なんだ?! 〜在日の現住所から問う〜

2016年9月24日(土) 14時半〜
講師 趙博(ちょう・ばく)さん

 

「ヘイトスピーチ」という奇怪な現象だけが問題なのではない。

日常を問い直す大変刺激的、かつ示唆に富む内容でした。最後に二曲も歌っていただき一同感激!

あめの中ご来場くださった皆さま、ありがとうございました。

 

趙博さんの東京公演、ぜひどうぞ!

 

ライヴ&トーク

http://fanto.org/schedule/index.php/view/886

■と き:10月8日(土)18:00 open 19:00 start
■ところ:ライヴバー BUNGA(東京都杉並区天沼3-1-5 / B1F)

 

歌うキネマ『NUTS(ナッツ)』

http://fanto.org/schedule/index.php/view/874

■と き:10月12日(水)開場19:00 開演19:30
■ところ:スターダスト
東京都世田谷区下北沢2-19-10 3階

 


2016年08月28日、C年特定17主日、東京聖テモテ教会

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカによる福音書14章1、7〜14節)
2016年8月28日、C年特定17主日、東京聖テモテ教会
香山洋人

 

 今日の福音はあまり高尚な内容ではなく宗教的な含蓄に富んでいるわけでもない気がする。あいかわらずツッコミどころは満載だ。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」は受けるばかりで何も与えない人のように言われているが、とんでもない。社会的弱者と呼ばれる人々がどれだけこの社会に貢献しているか、知らない人はいないはずだ。もうすぐパラリンピックが開催されようとしているこの時期だと思えばなおさらのことだ。

 

 高慢であってはならない、という教えは日本社会では古くから大切にされてきたように思う。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」ということわざもある。ある人と権威をめぐって議論したことがある。その方は権威や序列は重んじるべきだと考えていて、〜教授、〜博士などの尊称は大切にすべきだと考えていた。その方は、例えば大学において教授なのか准教授なのか、この違いは常に明らかにしておくべきだという。教会であれば司祭なのか執事なのかはまったく違うのだと言っていた。

 

 これは個人の考えの問題であると同時に文化の問題でもあるだろう。日本でも先輩後輩の関係はおろそかにできないし、年長者をたてるのはもちろん社会的地位のある人に対してはとりあえず先生と言わなければならないという感覚がある。儒教文化圏ではこの感覚は共有されているだろう。それが教会のような権威の精度を持つ共同体において、なおさら強調されるのかもしれない。欧米の教会では主教もファーストネームで呼ばれる場面を見て驚くが、アジアではあり得ないことだろう。

 

 権威や序列は重んじられるべきだという考えは権威主義ではなく責任の所在を明らかにするのだという。謙遜は美徳だが責任感の自覚がないことは問題だ。皆さんの意見を聞くといういかにも民主的で平等な考えはいいがリーダーシップの不在は組織を混乱させる。権威や序列が大事だというのは、それに見合った責任の所在を明らかにするべきだという考えだ。そう主張していた方は、たしかに責任感が強く、決断力があり、仕事に関して部下を責めない立派なリーダーだった。

 

 しかしイエスが「高ぶってはならない、へりくだっていなさい」ということはこれとは別の意味があるように思う。シラ書は、高慢さは神から離れた結果であり罪だと厳しく断罪している。もちろん偉そうな人は誰からも好かれないが、偉そうにしてしまうことは誰にでもある。人は誰しも怖がられることで自分を守ろうとするからだ。グループの中で、怖い人、気難しい人と認定されれば誰も議論をふっかけないしあからさまな批判もしない。場合によっては何かにつけご機嫌を取ってもらえるだろう。けれども、こういう立場になってしまった人はじつに孤独であり、哀れだ。

 

 たとえば厳しくすることで相手を育てるとか、良い方向に向かわせるとか、学校の先生や指導者のように愛情としての厳しさをうまく使いこなさなければならない場合もある。けれども教師や指導者は、相手を恐れさせ、萎縮させて自分の支配下に置こうとする誘惑にさらされている。恐れられ尊敬されている間はいいが一度馬脚があらわになれば一気に尊敬は失われ、嘲笑と哀れみの対象となってしまうだろう。これも孤独で哀れな有様となる。聖書に登場するファリサイ派は当時の社会の中でこのように恐れられ、敬遠され、嘲笑されていたのではないかと想像する。

 

 イエスはどうだったのだろう。聖書に記された彼の言葉を読めば厳しく怖い先生の表情が浮かんでこないだろうか。イエスが困るだろうからとうるさい子供たちを黙らせれば、このような子たちこそ神の国にふさわしいなどと叱責される。浮気はけしからんと責めれば、心の中でそう思っただけで浮気をしたのだと反論される。これでは立つ瀬がない。イエスの前で何か言えばすぐにすべてをひっくり返されてしまいそうだ。

 

 今日もイエスは、せっかく自分を招待してくれた人に対し、見返りを求めて社交的な付き合いをするようなことではダメだ、食事は信仰の実践なのだから愛の分かち合いとして見返りを求めずに行いなさいと直言する。当時、ラビのような宗教指導者はこうして招かれた席で何かを語って人々を導いたのだろうし、招待する側もこうしたお説教を期待しているのだろうが、イエスのやり方ではまさに面目丸つぶれということにならないのだろうか。イエスの態度はいつも礼儀を失している。彼はいつも場の空気を読まない。

 

 おそらくそれはイエスが世間一般の秩序、長幼の序のようなものを重んじていないからだろう。招待者の立場、世間では重んじられている人々の面目、自分が置かれた立場のようなものには気をとめず、つまりその場の空気を読むのではなく、人間にとって何が正しいか、本当に必要なことは何かを優先するのがイエスのスタイルだった。それは彼が配慮に欠けた怒りっぽい先生だったからではなく、世間一般の秩序によって苦しめられている人々のことがいつも念頭にあったからだろう。それは彼の社会批評でもあっただろう。そしてイエスが、自分にはもう時間がないと感じていたからだろう。だから彼はどこでも、誰に対しても遠慮などしなかった。

 

 そんなイエスの生き方に魅力を感じた人々、真実を見出した人々の群れが教会となった。高ぶらずに生きていこう、虚勢をはるのはやめよう、自分の欠点を受け入れる勇気を持とう、自分の間違いを正してくれる相手に感謝をしよう、失敗した仲間を責めるのはよそう、自分も失敗を大目に見られて今があるのだから。そんな考えでまとめられたのが今日の使徒書に違いない。高ぶらずへりくだった人生とはつまりこういうことなのだろう。

 

兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」(ヘブライ人への手紙13章1〜6節)

 

最後の言葉は詩篇118篇6節の引用だ。118篇1節から9節を読んでみたい。

 

恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
イスラエルは言え。 慈しみはとこしえに。
アロンの家は言え。 慈しみはとこしえに。
主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。
苦難のはざまから主を呼び求めると 主は答えてわたしを解き放たれた。
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。 人間がわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、助けとなって わたしを憎む者らを支配させてくださる。
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
君侯(支配者)に頼らず、主を避けどころとしよう。

 

 神の慈しみを受け入れた安心感がわれわれを謙遜にし、へりくだらせる。不安はわれわれを高慢にし、不安な人は虚勢をはる。これは宗教に帰依することを意味していない。人間に依存しない生き方、眼に見えるものに依存しない生き方のことだろう。

 

 


初めて知られる安炳茂(アン・ビョンム)の生涯

 評伝 ー城門の外でイエスを語るー (安炳茂著作選集 別巻)、かんよう出版

 

 

「かんよう出版」の安炳茂著作選集の刊行が始まりました。第一巻は彼の代表作である『民衆神学を語る』ですが、同時に別巻として『評伝、城門の外でイエスを語る』(原著2007年)が刊行されました。

 

 今まで安炳茂には二つの評伝があり、先に出版されたのは新約聖書学者で安炳茂の弟子でもある金明洙(キム・ミョンス)氏による作品『安炳茂、時代と民衆の証言者』(2006年)です。単純に生涯を綴った伝記とはことなり、安炳茂が生きた時代背景や彼の思想がどのように形成されたのか、その生き方の背後にあるものは何か、その仕事が社会に与えた影響が何でありわれわれに何を語りかけているかなど、幅広い情報と洞察が必要とされます。金明洙先生の作品は学者らしい客観的で冷静な筆致によるものであり、身近にいた弟子ならではのエピソードや時代の雰囲気を伝える内容が魅力的です。実は、安炳茂の神学思想を日本でも広く理解してもらえるようにと金明洙版の評伝を私訳したのですが、昨今の出版事情から原稿はいまだにわたしの手元にあります。もちろん金南一(キム・ナミル)版も読んではいましたが物語的すぎるかなと思い、わたしは金明洙版を選んだのです。

 

 一読して、金南一版の評伝、『城門の外でイエスを語る』は、読み物であることを意識した作品だなと感じたのはたしかです。著者金南一さんは文学的想像力も交えて安炳茂と周囲の人々の感情にしっかりと寄り添う作品、読者に訴えかける筆致を重視してこの作品を仕上げているように感じられます。けれども今回、仕事としてあらためて全編を読み通してまったく違う側面を感じることになりました。それは金南一さんが描いた情景の一つ一つ、登場人物に語らしめた言葉の一つ一つは単なる創作物ではなく、そのほとんどに具体的な典拠があるという驚きでした。

 

 全271箇所に及ぶ脚註の数から明らかなように、この評伝は膨大な研究の成果であり、その内容は安炳茂神学に限らず、軍事独裁政権下の韓国の政治状況と民主化への道程、ボンヘッファーやタイセン、さらにはポストコロニアリズムなどの現代思想まで多岐に渡ります。金南一さんは文学者ですが、この評伝執筆のために安炳茂の著作はもちろん、安炳茂の神学を論じた論文などもくまなく目を通してあり、神学的論点についての深い読み込みも随所に見られます。そのおかげで、わたしが韓国語で書いた論文も引用していただくことになりました。

 

 訳者、金忠一先生があとがきに書いておられるように、この評伝は実に感動的です。それは作者の文学的力量であり、もちろん安炳茂の魅力でもありますが、何よりも彼が生きた時代(1922-1996)が持つ特別なメッセージでもあるでしょう。安炳茂が生きたのは日本による植民地支配、解放、分断、独裁政権、民主化という激動の時代であり、それは知識人も信仰者も自身の学問や信仰をそれぞれ実存的に問われる状況でもありました。安炳茂は常に民衆の痛みから目をそらせることができない誠実な人間であり、研究者、信仰者でした。この時代が一人の人間に強いた痛みについては他にも多くの文献、作品を通して知ることができますが、『城門の外でイエスを語る』は韓国現代史を知る上で第一級の証言といえるでしょう。

 

 「城門の外」というキーワードは安炳茂の生涯を考える上で重要なものであるだけでなく民衆神学を知る上でのキーワードでもあります。これはイエスの十字架の意味を解き明かす鍵語であるのですから、実はすべての神学を反省する上で最も重要な指標の一つになるはずだとわたしは考えています。この評伝を通して人間安炳茂の魅力に突き動かされながら、一人でも多くの読者が安炳茂の作品を読み進んでいただければと願っています。

 

 

 


いよいよ安炳茂神学の全容を日本語で知ることができる!

  民衆神学を語る (安炳茂著作選集 第一巻) 、かんよう出版、2016/6/24

 韓国の現代神学者安炳茂(アン・ビョンム、1922-1996)の日本語版著作選集の出版がいよいよ始まりました。この大事業に取り組んだ「かんよう出版」は大阪を拠点とする新しい出版社ですが、キリスト教関係、特に韓国や中国に関する良書を次々と出版する大変意欲的な出版社です。定期刊行される「キリスト教と文化」は硬派な神学雑誌として貴重な存在と言えるでしょう。

 

 これまで『民衆神学を語る』(新教出版社)を通して安炳茂の神学思想に触れた方は多いと思います。もちろんこの作品が彼の代表作であることは確かですが、この作品は質問と答えという形式になっていて学術的論文とは言えませんし、「民衆神学」とは何かを解説する目的が根底にあるので、安炳茂自身の神学思想を自由に語りきったものとは言えません。『民衆神学を語る』を通して確かに民衆神学者安炳茂と出会うことはできるのですが、それが彼の全体像かと言えばそうではないと思うのです。

 

 新教出版社版の翻訳は大変優れた翻訳です。ごくわずか、校正上のミスと思われる部分があって一行ほどの内容が欠落しているのですが。今回、金忠一(キム・チュンイル)氏が新たに訳し直した『民衆神学を語る』は原語である韓国語の語感を生かした翻訳といえるでしょう。解釈を加えない、言葉をして語らしめるという基本姿勢は一般的な翻訳理論とは異なる面があるかもしれませんが、新教版と合わせて読んでいただくことで、作品の真価が一層明らかになるのではと思っています。

 

 「著作選集版」の特徴は原語のニュアンスを生かしているという点、そして各巻に専門家による解題が付されている点にあります。これから刊行される全巻にそれぞれもっともふさわしい解題執筆者が割り当てられていますが、『民衆神学を語る』を担当した崔亨黙(チェ・ヒュンムク)氏は、安炳茂の最後の弟子にあたる世代であり、この作品の作成過程(録音を文字化し編集するなどの作業)にも直接関わっているだけでなく、自身が「第三世代」と呼ばれる民衆神学者として活躍中でもありますのでまさに適任といえるでしょう。

 

 この「著作選集」は韓国の「安炳茂記念事業会」が全面的に協力することで実現しました。わたしは日本における著作選集刊行に責任を持つことになりました。崔亨黙さんが韓国側、わたしが日本側の責任者です。翻訳はすべて金忠一先生ですが「用語監修」ということで校正の段階からすべての原稿に触れる機会が与えられています。訳者を疑うわけではありませんが、思わぬ誤訳もあるかもしれないと思い、一行一行、原書と読み比べながら作業を始めました。しかし、三冊目に入ったところで作業の仕方を変えました。今までのところ、誤訳というべきミスは皆無だからです。驚くほど実直な翻訳に心から敬意を表します。

 

 修士論文、博士論文ともに安炳茂の民衆神学を主題にしたわたしとしては、彼の作品の基本的なものはおおよそ目を通したつもりでいたのですが、今回、すぐれた日本語訳を通してあらたに出会い直すことで、安炳茂という神学者のユニークさと魅力に心がふるえています。民衆神学は伝統的なキリスト教神学の枠を超えた奇異な神学、一時的な流行と受け止められている向きもありますが、一人のキリスト者、一人の知識人として誠実かつ熾烈に生き抜いた安炳茂の魅力は、神学的立場を超えて多くの人に大切な何かを訴えていると確信しています。

 

 保守化した韓国の神学界全体から見ればマイナーな作業と言わざるを得ませんが、崔亨黙さん、金鎮虎さんなどを中心に韓国では安炳茂をこの時代に読み直そうとする大変刺激的な努力が続けられています。日本では90年代に脚光を浴びながらもその後これといって注目を浴びずにいる感がありますし、民衆神学を研究テーマとする研究者も驚くほど少ない(ほぼいないといってもいい...)現状はとても残念でなりません。

 

 新約聖書学の作品としては評価できないという批判はあるでしょう。確かに安炳茂は学会で注目を集めるような研究者ではありませんでしたし、彼が言っていることは今世紀においてはもはや常識化し、あるいは時代遅れの解釈に属する部分もあるでしょう。けれども、聖書全体をつかむ神学者としての眼力と同時に、混迷するこの時代(彼にとっては独裁政権下の韓国)に真正面から向き合い、自身を投じ、人々の叫びの中に真実を聞き分けて希望のありかを指し示す預言者的行動力と洞察力、そして意外なほどの(?!)キリスト教への愛情はすべての時代の読者に訴えかける力を持っていると思うのです。

 

 これから「民衆神学以前」の安炳茂の作品を含めて、彼の重要な作品が十冊にまとめられ翻訳出版されます。価格を見れば個人、特に学生の方々には手が出ないと思われるかもしれませんが、この選集を通して安炳茂というユニークな神学者がアジアにいたということが多くの人に知られるようにと願っています。そしてこの著作選集を通して民衆神学への興味が喚起され、研究者が生まれ、いよいよ日本における民衆神学が生み出されるようになればと願っています。

 

 

 

 


2016年度春、アジアのキリスト教1、03

17、民衆神学は伝統的な「教会」と世界との境界線をなくす実践、自分がもし信じるなら「分かち合いの家」の人々が信じる神だという言葉こそ理想的 →ヨーロッパのキリスト教にとって世界はキリスト教であり教会でしたし「異教徒」たちは他者であって救済や改宗の対象でしたが非キリスト教圏においてこの図式は成り立ちません。世界の中で教会を相対化する視点が教会の本質を回復するものだと思います。聖書には「木はその実によって知られる」という言葉がありますが、実践こそが最も説得力のある言葉ということですよね。

 

18、実社会を生きる人々にとって意味のあるものでなければ宗教は無意味となる →宗教詐欺の被害にあったという<18>さんですが、「まとも」と思われているはずの宗教であってもきちんと自己相対化、自己批判ができているのかが常に問われる必要があります。「自分たちが正しいと思うからこそ伝道・布教ができる」という考えは間違いです。教会は自分たちが正しいのではなく正しい教えに従って歩もうとしている集団にすぎません。いかなる宗教も「罪人」つまり弱い人間のあつまりです。集団や組織が持つ健全さの指標は内外からの批判を受け入れる余地があるかどうか、メンバーが最高責任者と議論ができるかではないでしょうか。

 

19、市民の力で独裁者を追放し無血で民主主義を獲得したのは韓国だけだという事実は重要だ →フィリピンの「ピープルパワー革命」も無血革命と呼ばれることもありますが最後は軍隊の反乱によって事態が推移しましたので純粋に市民の力だけでとは言えないでしょう。それだけに韓国の人々にとって民主化は大きな意味があり教会がそのために大きく貢献したことは教会にとっての誇りです。ところが最近独裁時代に逆戻りさせたい人々が社会の実権を持つようになりました。北朝鮮や中国も独裁政権が恒常化していますし日本も経済成長と安全保障ばかりに関心が行きがちで民主主義という言葉の重みが失われている気がします。アジア全域で民主主義の真価が問われています。

 

20、「分かち合いの家」はベンチャービジネス、ソーシャルベンチャーともいえるが基本精神が利益優先ではないのでまさに教会だ、制度と実践に関するバランス感覚がすごいと思う →現場主義ということですよね、目の前の現実に関わるためにそれにふさわしい形や制度を作り出す柔軟さと、イエスの実践に倣って生きる自分たちの働きを教会の働きだと確信するキリスト教に対する信頼感の深さが重要なのだと思います。

 

21、キリスト教の社会的責任といっても具体例が浮かばなかったが「分かち合いの家」を見てなるほどこういうことかと思った →思い込みやとらわれから自由になることで可能性はいくらでも広がります。しかし「分かち合いの家」も韓国における教会の活動の伝統、ヨーロッパのキリスト教の様々な実践、南米の神学などを学んだ結果生まれた姿であり、表面的には新しいように見えても実は教会の伝統に立脚している活動といってもいいのだと思います。

 

22、現場や活動が重要であるように見えても実は最も重要なのは「信仰」だ →彼らの現場における活動の原動力は何かということですよね、それが聖書であり教会であり信仰であることは確かです。この場合の「信仰」が建物や制度に規定されたものや私的な何かではなく人間の顔をした信仰であること、人々の暮らしに根ざした信仰である点が重要なのだと思います。

 

23、今まで繰り返し聞かされてきた「隣人を愛する」ことが具体的にどうすることなのかイメージが浮かばなかった、「愛する」ことを目的にするのではなく自分が共感する人に向き合うことが第一歩だ →同感です。隣人愛というようなお題目、ルールが先行するのではイエスが批判した「律法主義」になってしまいます。具体的な状況を抜きにして抽象的に愛とか正義を語るのはかえってマイナスではないかとさえ思います。この状況で愛とは正義とはと考えそれを実行しながら問い続けていきたいものです。

 

24、小学校から14年間キリスト教を学んできたので新しい知識が増えるという期待はなかったが、視点を変える、観点を変えるということで新しい発見がたくさんあることを学んだ →知識においてもこれからまだまだ学ぶべきことはあるはずですが、問題は知識ではなく解釈でありそれを自分の実体験とどう結びつけるかということですよね。立場を変えればストーリーは変わってくるものです。ザビエルの視点ではなく当時の日本の武士あるいは仏教徒、農民の側からキリスト教はどう見えたのかという視点の転換ができればまだまだ面白いことはたくさん出てくるはずです。聖書だって、読み方によってメッセージは全然違ってきますから。

 

25、信仰は目に見えないものだと思っていたが目に見える信仰というものを知った →「あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」(新約聖書「ヤコブの手紙」2章16〜18節)

 

26、同じ場所で暮らすことで問題の真相が見えてくるというのはコルカタのテレサの例にもあることだ、きれいなチャペルで礼拝しながらみすぼらしい人が来ると奇異な目で見ていた、「わかちあいの家」のような敷居の低い教会に憧れる →「地域に開かれた」とは本来こういうことですよね、韓国とは社会の成り立ちや人々の考え方も違うので同じことができるとは思いませんが地域活動は日本でもありますし教会やクリスチャンが関わることが多い気がします。「どなたでもどうぞ!」という場合、想定する対象者は極めて限定されているのが現実であり、まずは教会の言葉の矛盾に気づくことから始める必要があると思います。

 

27、本当に教会を必要としてる人のために教会はあるべきだ、お高くとまった教会というイメージもあるが「ノートルダムの鐘」のようにジプシーをかくまう教会の姿も知っている、礼拝で心が安らぐとしても一時的なものでしかない、毎回ハッとする授業だった →挑戦の歴史を学びながら教会が民衆と共に歩んできたこと、社会全体に教会の肯定的イメージがあることを学びましたが、日本でもキリスト教は貧しい人を助けるとか人のために何かをするというイメージは定着しているはず、それと現実の教会とのギャップが問題ですよね。

 

28、儀式、形式、学問が宗教の本質ではないはず、宗教を敬遠する人々は本質を見失った宗教を毛嫌いしているのであってイエスの教えを伝えるのではなく愛を実践するようなキリスト教なら敬遠する人はいないはず →同感です。入信を迫る、献金を要求する、プログラムへの参加を強要する、献金が多く参加度が高いこと、「宗教に熱心」であることを信仰に指標とするような団体に入りたいと思う人はいないですよね。

 

29、韓国が好きで行ったこともあるが「教会が多いな」という程度であってキリスト教とのつながりは意識しなかった、次に行った時は授業を思い出して色々な場所を訪ねたい →是非そうしてみてください!

 

30、韓国ドラマを見ていると教会の人が貧しい人に食事を配るようなシーンがある、日本のドラマではありえない光景だ →クリスチャンが20%以上いる社会ですからテレビでも映画でもそういうシーンは出てくるし、登場人物として神父が出てきたり教会が舞台だったりということが起こります。


2016年度春、アジアのキリスト教1、02

6、前回の授業について。授業をサボった仲間にノートを貸すのが嫌なのは自分が費やした時間が無駄になる、サボることの是非は別として「誰かのために時間を割きたくない」ということだ →誰かの支援をする、手助けをするというときに一番出しにくいものが自分の時間だという話に対する応答ですね。90分授業を受けて作ったノートは他者が見ても時間を得する?結果にはなりません。その時間を費やしたことは代替不可能な何かです。それだけに時間は貴重だということでもあるし、誰かのために時間をかけることは意味があるわけですよね。

 

7、新自由主義が格差を生む、自由な競争原理のマイナス面が貧困なら社会がそれを補う必要があるだろう、「分かち合いの家」は社会が必要とする働きだ →貧しい人がいなくなる社会を想定することは容易ではないとすれば社会全体が責任を負うことは必要だし公的な福祉制度はそのためにあるのだと思いますが、教会など市民社会がそこに積極的に加わることも重要だと思います。韓国の場合、制度的福祉の遅れを教会が補ってきた面がありますが、制度では対応しきれない部分を市民が補うことも大切だと思います。

 

8、互いに助け合える共同体を目指した結果が教会であった、「メガチャーチ」としてもその精神を活かせないのか →いわゆる「メガチャーチ」も国内外の貧しい人の支援のために巨額を投じていますが、活動の視点というか質が異なるような気がします。「分かち合いの家」は住民が中心、自分たちで自立することが目標ですが、それ以外の教会の場合なかなかそういう精神になりきれない場合があるし、場合によっては自己宣伝の道具のような活動になってしまうこともあるようです。現場にまで行けない人々の代わりに自分たちが活動する、いけない人々は活動する人々を支えるという関係性はいいですよね。

 

9、クリスチャン以外の人間にとって教会は礼拝をするところだが、礼拝共同体としての教会が本来の姿ではないとすれば多くの人々は教会の本当の姿を知らずにいることになる →たとえそれが「誤解」であっても教会といえば信徒が集まって礼拝するところ、信徒とは日曜日に教会に集まって礼拝する人々と思われているのが現実でしょうし実態もそうなっているかもしれません。キリスト教が敬遠されているといっても誤解した上で敬遠しているのはあまりも残念です。

 

10、そもそも礼拝は行きたいときに行くものだと思いながらも自分が奏楽するから礼拝に来てと誘ってきた自分がいる、奏楽の奉仕で満足しているのはどうかとも思う →きっかけはなんでもいいし、人は常に100%でなくてもいいと思いますから、知り合いがオルガンを弾くと聞いて行ってみたとか、借りてた本を返そうと思って礼拝に行ってみたということでもいいと思います。「奉仕」という言葉もやっかいですよね。他者からは奉仕と思われても自分は自分の満足のためにしているということもある。大切なことは「奏楽奉仕」しているから自分の「奉仕ポイント」はクリアーしてるのような発想に陥らないということでしょう。だから<10>さんは大丈夫です。

 

11、キリスト教の宣伝をしない「分かち合いの家」だが貧しい人々を助ける活動によって社会的イメージが高いし結果的にキリスト教の宣伝効果も生じている →一部の過激な信徒がするような路傍伝道とか戸別訪問のような活動は、宣伝効果としてはマイナスですから行う目的はただ自己満足のためだけです。本当にキリスト教のいい面を知ってもらおうと思えばあんなことをするはずがないし、かえって教会の名を伏せて他人の役に立つような活動をすべきだと思ってしまいます。「分かち合いの家」はそれを狙っているわけではありませんが、結果的には韓国社会において聖公会やキリスト教全体のイメージアップに貢献しているのは事実だと思います。

 

12、立教チャペルが好きで礼拝にも参加しているが批判的にも見ることができるのだなと思った →わたしも立教チャペル好きですし今でも聖歌隊のファンでもありますが、あれがキリスト教である、礼拝であると捉えることには賛成できないのです。ですからすべての教会がそれぞれ自分にできないことをしている人々、教会に敬意を払う関係になれればと思います。

 

13、「分かち合いの家」は教会っぽくないだけでなく宗教の枠を超えてその本質を具現化している →教会の形を取り払うことで教会本来の魅力を発揮している、そんな感じでしょうか。こんな自由さが大切だということは他のものにも当てはまりそうですね。

 

14、普通のひとが教会に求めているのは権威や格式ではなくひとを助ける場であるということだろう →たいていの教会は敷居が高いですよね、そして偉そうでお高くとまっているという気がします、特に聖公会は。でもそれは人々がかろうじて好感を持って受け入れているキリスト教のイメージとは違うしイエスが考えていた新しい生き方とも違っている。人間はどうしても保身に走りますから教会も無意識的にであれ自分たちを守る気持ちが先行してしまうのでしょう。

 

15、聖書を読む限りキリスト教にとって大切なのは教会ではなくイエスの教えだ →その大切なイエスの教えを受け継ぐために教会があるはずなのですが、いつの間にか道具である教会の方が目的のようになってしまいました。教会を守るためにはイエスの教えを割り引いてもいい、という本末転倒な考えが生じて二千年たっています。

 

16、メガチャーチのようなスタイルの教会が登場しても実際に人々の救いにはつながらないという経験があってのことだろう、日本の社長レベルのクリスチャンで「分かち合いの家」を「本物の教会」と言えるひとがいるだろうか →もちろんいるとは思いますが、そういうひとが教会の中でリーダーシップを取れるようになっているかというと、そかはわかりませんね。


2016年度春、アジアのキリスト教1、01

最後の授業からそろそろ一月、リアペに何を書いたかすっかり忘れた頃かと思いますが、予告通りここに少しずつ応答を書くことにします。

 

1、教会の存続のために教会に行っているのではない、礼拝共同体ではなく生活共同体という「分かち合いの家」の姿に本当の宣教を感じる →教会は大事だと言いますがあるだけで大事だという言い方には疑問がありますよね、それを否定する必要はないとしてもいろいろな姿の教会があることは大切だと思うし固定観念にとらわれずにイメージを膨らませるための勉強、知識の吸収といろいろな体験は大切だと思います。

 

2、韓国で日本語を学ぶ場合実生活にどのように役に立つのか →韓国企業の多くの取引先は日本企業ですから日本語能力はけっこう実用的だと思います。最近は中国人が多くなったとはいえ観光客も日本から来る人が多いですからね。

 

3、「また来てね」という言葉を喜んでいた自分にとって「分かち合いの家」の人々の感性はすごいと思う、自分の生活を考えずに新たな事業を始めたことにも驚くがそれを支えた仲間がいたことにも感動する、きれいな理想だけでは人を助けることはできない、大聖堂と「分かち合いの家」が対立しない関係であることは素敵だが本当にそうなれるのかは疑問 →大聖堂の人々は自分たちのスタイルに誇りを持ちつつも「分かち合いの家」の活動を尊敬しているし同じ聖公会として誇りに感じている、「分かち合いの家」の人々も自分たちの活動を理解して支えてくれる仲間と思っている、何より互いに顔の見える関係があることが重要だと思います、大聖堂の人がボランティアで出入りしたり「分かち合いの家」の人が大聖堂で行われる研修会の講師になったりしていますし。

 

4、食卓を囲むことが大事だといって聖餐式をするのではなく実際にみんなで手作りランチを食べるのが素敵、民衆神学の精神を感じる →形を継承するのではなく精神、その意味を継承して再現することに重きをおくということです。キリスト教が大事にしてきたことはなんだろうと考えたときに信徒を増やすことが優先課題になるとは限りません。イエスの名を伝えるのではなくイエスの教えを実践する、というのも同じことです。

 

5、韓国の教育熱もすごいが東南アジアでも英語や日本語教育が盛んになっている、日本語しかできないほとんどの日本人が国際競争に負けるのは当然だ →経済的競争もそうですが市民的な交流においても自分の文化を超える能力はとても大切だと思います。確かに日本にはなんでもあるし安全で住み心地がいいような気もしますが、そうした「誤解」が自分の世界を狭くしてしまわないようにしたいものです。


2016年度春、キリスト教と映画03

14、自分自身を受け入れ、同時に他者を認めることが隣人愛、「自分らしさを大事にする」ことの大切さが今回観た映画の共通点 →隣人愛という考えは道徳的な行動、善行をつみましょうということではなく共同体としての行き方の問題だと思います。共同体というと個人が消えてしまいそうですが自分らしく自由に生きる行き方の中に隣人と共に生きるという要素が必ず必要なはずだと思うのです。自分らしさとは孤絶、孤高の姿ではなく自由な主体同士が互いに活かし合う中で開かれてくるものではないか、最後の作品はそんなイメージを与えてくれました。

 

15、すでにレポートを書いたが最後の授業を聞いて書き直したくなった、「正義」と呼ばれるものが自分に都合のいい正義となり、人が求める神は自分を必ず肯定してくれる神なのかもしれない →正義とか神という概念ですら人間の利己性の前に歪曲されているのではないかという批判的論点を検討しました。小学生が先生に告げ口する時の気持ち、先生は必ず自分に有利な裁定をしてくれるはずだという素朴な信頼のことです。「水戸黄門」のような聖王伝説もこれと同類です。しかしこの論点は、正義や神のような普遍的なものを否定するために提出したのではありません。宗教的にいえば、自分が神と呼んでいるものは自分の願望の投影ではないのかと常に立ち止まること、自己批判的信仰が重要だということです。旧約聖書の人々は偶像崇拝を厳しく禁じましたがそれは他宗教に対する不寛容としてではなく自分の信仰、自分の信念に対する絶えざる批判、再検討の促しであると捉えたいのです。無批判な正義、やみくもな信仰が偶像崇拝でありそれは「キラ」として自己神格化した夜神月の姿でした。

 

16、人の数だけ正義がある、だから正義の定義付けは難しい →論理を構築するために概念の定義は必要かもしれませんが、正義のようなものについては立ち止まらないこと、問い続けることが不可欠であり、「正義とは〜である」という定義自体が正義の概念に反していると思うのです。水は流れ続けていないとよどみ腐敗します。清流の条件は流れ続けていることです。だから正しいものなどどこにもないという思考停止的結論ではなく、この正しさが全てではないという絶えざる運動に身を投じるというのはどうでしょう。正しいか正しくないかという二元論が私が批判し続けた「思考停止の二元論」です。

 

17、「桃太郎」、誰の立場から解釈するかというテーマは、「誰がこの人の隣人いなったと思うか」という「善いサマリア人」の問いかけと同じ、別のクラスで「では誰が追い剥ぎの隣人になるのか」という問いが提出された →「誰が隣人か」という断定的思考は正解を必要とする人の不自由な思考方法であり、「誰が隣人になるか」という動的で参与的な思考は常に問い続ける思考方法であり新たな可能性に開かれたスタイルだと思います。「追い剥ぎ」にはわたしも注目しています。追い剥ぎの被害者を助けるだけでは社会の悪、構造悪は放置されたままですから、人が追い剥ぎにならなくてもいい社会を作る責任がある、それは政治の責任であり、聖書的にいえば祭司やレビ人の責任ではないでしょうか。神愛教会の「ひぐらし通信」にそんなことを書いたばかりです。

 

18、一度観た映画を見直すことはしないがこの授業では視点を変えて観ることで内容が違ってくる面白さを知った →好きになれないキャラクターに共感できるようになることもあるし、見過ごしたシーンが急に重要なものに思えることもある。映画も文学も学術的論文も全てそうですし、人間も会うたびに違った側面が見えてくる、自分が変わることで相手の印象も変わってくる、全ては相互作用だというところが面白いと思います。

 

19、厳格な宗教、神は絶対、他宗教は認めない、これがキリスト教だと思い込んでいたがこの授業でかなり印象が変わった →聖書には厳格で排他的な舞に関する表現がたくさんありますしそのことを強調する教会、牧師や神父もいます。しかし、だからと言って「神とはそういうもの、キリスト教はそういう宗教」と断定するのではなく、神をそのように解釈した人々の伝承が聖書に含まれている、その点を強調する教会があるということだと思うのです。一般的にそのような解釈が広がっているとするならばわたしはあえて寛容であること、自由であることの大切さを訴え続けたいと思います。イエス自身、ある人には厳しくある人には寛容でした。ほんとうは神の寛容さ、優しさに気づくべき人が逆に厳しさにとらわれて追い詰められていることがあります。寛容さを伝えるべき相手に厳しさを強調する間違った教会の姿をよく目にします。印象は移ろいやすいものですが固定観念を振り払って自分の目で大切なものを見出すようにしていただければと思います。

 

20、他者を認め自分の弱さをも受け入れること、現実にできるかどうかではなくそのことの大切さを忘れないでいることが重要だ →自分が正しいかどうかより、正しい方向がどこかを知っていることの方が重要だと思います。隣人愛など偽善だ、無理だということは簡単ですが、未熟な自分を固定化して変化の余地を自ら排除する必要はないはずです。

 

21、この授業では新しい考えに接するのがいつも楽しみだったが朝がつらくて寝てしまうこともあった →体調もありますからね、聖書には死を覚悟したイエスが逮捕直前に徹夜で祈るという場面がありますが、そんな緊張の最中に弟子たちはぐーぐー寝てしまいます。それを見たイエスは「心は熱しているが肉体は弱い」といって理解を示すです。この台詞、かなり好きです。

 

22、これから映画を観るときに語りかけてくるメッセージをより深く受け止められる気がする →映画は何も考えずに観る、好きな作品であればあえて誰とも意見を交わさないというコメントもありましたよね。それも一つの鑑賞方法ですが、あれこれ考えたり、みんなで分析したり評論しあったりするのも楽しいはず。好きな作品をけなされるのはイヤですから単なる悪口をいうような人ではなくポジティブに語り合える映画好き仲間がいるといいですね。

 

23、幼い頃からキリスト教に親しみかなり理解しているつもりだったし疑問も抱いてきたが、信仰も神も必要のない世界を目指すのがキリスト教という言葉を聞いてスッキリした気がする →浮き輪にしがみついている限り泳ぎは上達しませんよね。泳げるようになることが大事なのに浮き輪が自己主張するようなことがあってはなりません。しかし上手に泳げる人が浮き輪を捨ててしまうとも限りません。キリスト教に限らず宗教それ自体は目的ではなく道具のようなものであって目的に取って代わることはできないはずです。

 

24、自分がキリスト教学科に所属している意味を考え続けているが、キリスト教が究極的に求めているのは人間が主体的に生きることだという言葉を聞いてこれからの手掛かりとしたい →いろいろな手掛かりを通して自分なりの意味を見いだすことができるはずです。

 

25、人間イエスには限界も欠点もあるからイエスが正義だと断言すべきではないしキリスト教が絶対ともいえないが、世界に対する影響力の大きさを考えるとキリスト教についてしっかりと考えておく必要があるはずだ。秋学期もキリスト教に関する授業をとるつもりだ →イエスが魅力的なのは完璧で欠点がないからではない、誰もが満足する正義を主張したわけでもないのに彼の行き方に多くの人が不思議な魅力を感じる、今の自分には不利と思える主張があるにもかかわらず聖書を読み続ける、やはりそこには何かがあるし一人ひとりが自分にとっての魅力をそこから感じ取ることが大切なのではないでしょうか。気に入るかどうかは別として、キリスト教という考えについてしっかり考えてみるというのはキリスト教学科を選んだ学生の特権だし強みになると思います。

 

26、平和の象徴と言われる鳩が色分けされているという話は実に象徴的 →人工的なストーリーはどこかに無理があるし、無理してきれいな物語を作らなくてもそこに真実があれば必ず伝わるはずだと思うのです。負の歴史を「自虐史観」と呼んで隠蔽する態度には、この国の人々、特に若者を信頼しない傲慢さを感じます。戦没者に感謝すべきだというような結論を押し付けるのではなく、真実を学ぶ中で湧き上がってくる一人ひとりの思いが大切なのであり、人工的な美談や感動からは困難な状況を生き抜く力が湧き上がることはないと思うのです。

 

27、理不尽さを取り除く必要があるのか、それが人間らしさでありそれがあるから宗教が発達したのではないか →大きくみればそうとも言えますが、個々の問題を考える必要もありますよね。差別も暴力もない世界のためにギヴァーのようなコミュニティを作ろという気にはならなくても、差別も暴力も人間ならではの理不尽さなのだからといって放置することには大反対です。

 

28、何が正義か決められない世の中では多数決しかないのか →多数決は対立する意見を調停するための一つの方法ですが、勝者を「正義」と呼ぶことは間違いですよね?正しいから勝ったのではなく多数意見だというだけであり、多数意見が正しいとはいえないことは歴史を学べばすぐに分かることですし。


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